チェンマイ発・ちょっとディープな北タイ日本語情報誌CHAO『ちゃ〜お』は毎月10日、25日に発行。本文へスキップ

タイ国王崩御の報に接して(325)

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.10.27 Thursday

 

今号のピックアップコラムは

タイに住んで25年以上という

ロバート・H・スガさんによる「タイ国王崩御の報に接して」です。

 

タイ国王崩御の報に接して

                  

 タイ在住日本人の一人としてタイ王室とタイ国民の皆様に心からの哀悼の意を表します。1928年(昭和3年)生まれの私はプミポン国王と6か月しか変わらぬ同年の老人で、タイと同じに皇室を戴く日本国民で、なおかつタイに移住して25年以上国王のご事績を身近に見分していますので、一入の感懐を持ってこの拙文を綴る次第です。
 プミポン国王は近代世界の国王の中で最も国とその国民の発展向上にそのご生涯を寄与されたお一人であったと思います。特にタイの基本産業である農業の分野に深い関心を持たれ多岐に渡る研究に没頭されたばかりでなく、ロイヤル・プロジェクトの名の下にタイの山野を跋渉され、直接国民をご指導ご鞭撻されてその結果が今日タイが世界の食糧庫としての貴重な地位を築いています。
日本の昭和平成両天皇もそれぞれの学術的御研究が世界的に認められるレベルでありますが、残念ながら直接国の発展に寄与するには至っていません。その現平成天皇がまだ皇太子であられた時にプミポン国王になされた助言がロイヤル・プロジェクトの一つとして実現され、アフリカから導入された魚ティラピアが今はプラー・ニンの名でタイ全国民の食材として普及し農業経済の拡大となっているのは私が以前「ちゃ〜お」に寄稿した通りです。
 また、飛行機による人工降雨作戦も成功し恒常化されているのは世界でタイだけではないでしょうか。数あるプロジェクトの中にはその実行可能性や採算上普通の企業では手の出ないものも多かったと推測しますが、国王ご自身が手を汚し私財を傾けての弛まぬご努力がそれらを立派な産業企業として確立できた最大の理由でしょう。
 一方、プミポン国王がタイ国民から熱狂的な尊敬と支持を集められたカリスマ性も忘れられないことの一つです。私見からすると、タイ人は日本人に比べて非常に個人主義的な人種ですが、国王の号令の下ではそれぞれの私利私欲を捨てて目標に向けて行進することによって国王を先頭とした国の発展を大きく推進してきました。
 世界最長70年のご在位中、何度かクーデターが起きましたが、いずれも大事に至らぬうちに収拾され、国の存立が危機にさらされ国民の生活が破壊されるようなことが無かったのは、国王の存在が大きく作用していたと思われます。日本の天皇家の存在や権威は敗戦によって大きく変わりましたが、タイ国王の権威は全く変わっていません。その一例としては不敬罪が存続し現行法として運用されています。それに対する批判は別としても、タイ国民に比べて戦後の日本国民はもう少し天皇、天皇家に敬意を払い大事に対処すべきではないかと戦前派の私は思っています。
 また、TVなどで80歳台後半になってからの国王の映像を拝見する度に、失礼な言い回しながら、「ご同輩どうぞお元気でもう少し長く生き延びましょう」と心の中で唱えていましたが、今は空しい思い出となりました。
 これらのことを考え合わせると、プミポン国王の崩御はタイ国民にとってどれほど深い悲しみと計り知れない損失であるかということがひしひしと感じられます。ここで改めてもう一度心からのお悔やみを申し上げ、今後は天上からタイ国民を変わらぬ愛情の目を持って眺めて頂けることを祈って筆を置きます。

                             文 ロバート・H・スガ

 

 

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6月12日第開催 3回シンポジウム「タイ社会に受け入れられるためには」

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.05.25 Wednesday

 

チェンマイ介護研究会からのお知らせ
第3回シンポジウム「タイ社会に受け入れられるためには」


昨年は2度のシンポジウムを開催し、
まず、北タイにおける高齢者の医療と介護の実態について勉強しました。
次いで、私たちの手で介護システムを構築する方法を模索しました。
今回は、私たちがタイ社会に受け入れてもらうためにはどうすればよいかについて学びます。
タイにおいては、実際に介護などでお世話になるのはタイ人です。
タイ人による介護に失敗した例を数多く聞きますが、
その原因はお互いが理解し合い、心を通わせることができないことに原因があります。
日本の常識を正しいものとして一方的に押しつけても、
タイ人にとって理解できないこともあります。
タイには、タイ独自の長い歴史に基づいた文化や慣習があるからです。
それは、私たち日本人には理解しがたいこともありますが、
譲り合い、理解し合うことなしには、信頼関係を築くことはできません。
そこで、日本人をよく知り、日タイ両国の文化や慣習に詳しい3名のタイ人を
パネリストに迎えてお話を伺います。
日本人に対するタイ人の本音も聞くことができると思います。
お話からタイ人の考え方を学び、相互理解に役立てたいと思います。

サワン・ケオカンタ氏           サランヤー・コンジット氏


アラン・タング(アヌポン)氏
【日時】6月12日(日)13:00〜16:00(受付開始12:00)
【場所】オーキッドホテル会議室(地図E−2)
【パネリスト】(敬称略)
サランヤー・コンジット:CM大学日本研究センター所長
「異文化理解―チェンマイの異文化交流」
アラン・タング(アヌポン):チェンマイ・レインボウ・トラベル代表
「タイ社会に受け入れられるためには」
サワン・ケオカンタ:FOPDEV 高齢者対策財団
「北タイにおける高齢者対策活動」
【会費】1人100バーツ(コーヒー・ケーキ付き)
【後援】在チェンマイ日本国総領事館
【協賛】チェンマイ日本人会、チェンマイロングステイライフの会。定住者集いの会、
FUKUSI NO KAI、チェンライ日本人会
【申し込み先】E-mail:scc.chiangmai@gmail.com
または携帯09-0760-7243(佐原)
※フルネーム、電話番号、メールアドレス(あれば)をお願い致します。
定員(70名)に達し次第、締め切らせていただきます。

 

 

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ファランのロングステイ パート2 ▲蝓爾気鵑僚于颪

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.04.25 Monday

 

今号のピックアップコラムはサミュエルス・圭子さんによる
不定期連載「ファランのロングステイ パート2」です。


▲蝓爾気鵑僚于颪


 異性との出合いが難しいといわれているチェンマイ。
70歳のイギリス人と恋に落ちたリー(77歳)の話をするには、
まず、一年前に亡くなったリーと30年連れ添った
奥さんクリスの話をしなければならない。

 2014年の8月、頭がくらくらして歩行困難になった
妻クリスに付き添って行ったラム病院での診断は末期癌で、
余命2ヶ月と言われた。
 それを聞いてもクリスは冷静だった。
治療は一切受けずに自然に死にたいと決心した。
医者は痛みを和らげる緩和処置として放射線治療を薦めたが、
クリスは拒否した。
クリスは医者に病状がどう変わっていくのか、熱心に聞いた。
自宅で6週間過ごし、最後の2週間は入院する計画を立て、
大事なことは全部その日のうちに決めた。

 家に帰ると夫リーの手をとって、クリスは言った。
「まだ意識がはっきりしている今のうちに言っておくけど、
泣き喚いたり悲しんだりするのはやめましょう、くよくよしないことよ」
 医者の言った通り、10月にクリスは亡くなった。
彼女の残した言葉通り、クリスの死には涙がなかった。
 
 私は聞かずにはいられなかった。
「いくらあきらめろと言われても、
普通の人は30年も連れ合った妻が亡くなれば、
ショックで何かにつけて思い出して泣くだろうと思うけど…」
 リーはニュースカメラマンとして、
厳しいプロの目で激戦地や自然災害の悲惨な状況を伝える報道番組を作ってきた。
世界中を飛び回って、悲惨な状況にある人間の姿を追い続けてきた人だ。
「悲惨な状況の中にいて、どうやって感情に流されずに撮影ができるの?」
「まずは自分の周りで起こっている事と自分の間に距離を置くことだね。
どんな映像が撮影できるか、どんなストーリーとして編集するかを考えているし、
そうやって目の前にある仕事に集中すると、感情に流されることはないね」
妻のクリスもまた、悲惨な人間模様が繰り返される
タイ国境のカンボジア難民キャンプで何年も働き、
バンコクではアメリカのテレビ局の仕事もしていた。
クリスの行動力、冷静な判断力は、
難民からも国連関係者からも、
「クリスの頼めばどうにかしてくれる」と信頼されていた。


 こんな仕事を一緒してきた夫婦だからこそ、
死という人生で一番大きな出来事を迎えても冷静でいられたのだろう。
「クリスが亡くなった直後はどうだった?」
「2ヶ月くらい友達や親戚を尋ねて、
ヨーロッパ、アメリカを旅してチェンマイに戻ってきた。
やっぱりチェンマイが好きなんだよ。
同じコンドーに今も住んでいるんだよ。」
「70過ぎて恋人ができるなんて、みんなうらやましがるでしょう」
「そうだよ、本人の僕が一番驚いているよ。
クリスが死んで、これからは一人で生きていくのが当たり前と思っていたし、
誰かに出会うなんて思ってもみなかったね」
 リーと話をしていると、日本の話がよく出る。
テレビ局から派遣されて何度も取材に行ったこと。
リーが暮しているコンドーは、日本人男性の一人暮しが多いことなど…。
 隣の部屋をちょっとのぞくと、空き部屋になっている。
「この部屋なんだけど、僕と同年輩らしい日本人男性が一人暮らしをしてたんだよ。
そう7年くらいになるかな。
暑くてドアを開けっ放しにしていたから、
寝るのも、食べるのも、すべて床の上で暮していたのが見えたよ、
椅子も机も何もない部屋なんだ。
言葉が通じないから何もわからなかったけど、
ここから引っ越してどうしているのかね」
「ここが一人暮らしの男たちが集まる店なんだよ」
 そうリーが紹介してくれた日本食を出す食べ物屋さんは、
時間外れなので、誰も人は入っていない。
「僕だってこの年でこんな気持ちになれるなんて思ってもいなかったよ。
だからここにくる男たちに言いたくなるんだよ。
あきらめるなって、人生は精一杯生きなきゃ」

 

 

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さくら寮日誌 (最終回)30年ぶりの旅立ち

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.04.11 Monday

 

チェンラーイ県で 「さくら寮」を営み、
山岳民族の子どもたちの教育をサポートされてきた三輪隆さん。
三輪さんによる執筆のコラム「さくら寮日誌」が、
今回で最終回を迎えました。
全141回、11年と半年間続いた長い連載が終わり、寂しくなりますが、
来月からは、さくら寮結成の成り行きについてのコラムが掲載される予定ですのでお楽しみに。



さくら寮日誌 最終回 
30年ぶりの旅立ち

30年前バンコクにはじめてきたころ、知り合った大学生がホテルに遊びに来た。

 初めてタイに来たのは今から30年前の1986年1月のことだった。
バンコクについた最初の夜、投宿した民主記念塔近くの中級ホテルがいきなり火事になった。チェックイン後、2時間ほどホテル界隈を散歩して帰ってきた私は、自分が泊っているホテルが煙をあげているのを眺めて呆然となった。幸いボヤで終わったらしく、鎮火したとのことで、部屋に戻ると荷物は無事だったが、すでに廊下にも部屋の中にも煙が充満していてとても眠れるような状態ではない。フロントに行って「部屋を変えてくれないか」と頼んだが、「大丈夫、もう火は消えてますから、ご安心してお泊りいただけます」と言われた。これが私が学んだタイ人の「マイペンライ」の使い方の最初だった。バンコク最初の夜は煙にむせ返りながら一睡もできなった。
 以来、ほんの1か月のつもりが、3か月が過ぎ、3年が過ぎ、30年が過ぎ、気がつけば人生の半分をタイで過ごしていた。これも片手間のつもりではじめたボランティア活動がいつしかライフワークになっていた。同じ場所に長くとどまりすぎたバックパッカーのなれの果てである。
そんな私も、3月末からしばらく家族を引き連れて日本に帰ることになった。6歳になる長男を実家のある岐阜の小学校に入学させるためである。
 という話をタイや日本の知人にすると、一様に怪訝な顔をされる。チェンラーイのような暮らしやすいタイの田舎で、のびのび子どもを育てられる環境にあるのに、何でわざわざ日本の学校に? 日本みたいに窮屈で管理でガチガチの社会で子どもを育てるのって、どうなのよ? まあ、確かに。でも私の田舎よりチェンラーイのほうが都会なんだが。
私も長男が生まれて以来、学校教育をタイで受けさせるべきか、はたまた日本で受けさせるべきか、決断しかねてきた。物価の安さと暮らしやすさからいえば断然タイだが、3人の子どもの教育費、医療費などを考えると、トータルの出費はトントンかもしれない。タイでもインターナショナルとか有名私立学校は授業料がめちゃ高いし、病院だって私立の高級なところは目の玉が飛び出るほどだ。
 いや、経済的な問題は親の都合として、重要なのはどちらで育ったほうが本人のためかである。わたしの田舎などはまだまだ排他的な農村共同体的体質が残っていて、タイ人妻を連れて来ると聞いただけで好奇の的である。それに比べたらタイは民族、国籍を問わず、外部の者をごく自然に受容する懐の深さがある。ただしタイ北部はここ数年煙害が深刻で、育ち盛りの子どもが安心して住めるような環境とは言い難い。うーん、一長一短である。
 私自身としてはタイで暮らしたほうが間違いなくハッピーだが、父親としては、息子を日本語で思考させ、日本的な文化や価値観に染め上げたほうが、わかり合えるし、味方につけられるという目論見もある。自文化中心主義というか、私の中の「利己的な遺伝子」のなせるわざだろう。
 30年の間にタイ社会のドラスティックな経済発展と変化、そのいい部分も悪い部分も見てきた。特に山地民の教育支援プロジェクトに関わっていたので、タイの教育現場、教員や子どもたちを取り巻く現状も目のあたりにしてきた。タイの子どもたちは素朴でやさしくおおらかというイメージがあるかもしれないが、この頃は青少年の非行問題が深刻化している。さくら寮の寮生たちが通う学校でも中学生、高校生の間でさえも飲酒、喫煙、麻薬、覚せい剤の使用が横行し、全校生徒の約1割の子どもの親が麻薬などの犯罪で服役中という衝撃的なデータもある。普通の若者たちも、ゲームやスマホに夢中で、学力は年々落ちる一方。山地民の生活水準もこの30年でずいぶん底上げされ、豊かになってきたのを実感できるが、それと反比例して人々のモラル意識は低下しつつある。
一方で私の日本に対するイメージは30年ぐらい前で止まったままで、日本の教育現場の実態についてはなおのことわからない。陰湿ないじめ、ママ友同士の権謀術数、小学校で学級崩壊が起こり、モンスターピアレンツが教員を委縮させていると聞いても、それでも教育の質は日本のほうがいくらかましかなと思ったりする。えっ、それって甘い考え?
 そう、私は最近の日本の状況をまったく知らないし、タイという国を客観的に見ることもできなくなっていて、ちゃんと二つの国を比較できる冷静な目を失っているということに気がついたのだ。
 であれば、今回しばらく日本に「ロングステイ」することは、日本の現状を体験的に理解し、また外からタイという国を客観的に見つめなおす絶好の機会にも思えてきた。なんとなく初めての国に移住するような感じでちょっとワクワクもしている。まずは、3か月ぐらいのお試し期間である。だめだったら帰ってくる場所があるのは気が楽だけど、最初にネを上げるのは妻か、息子か、はたまたこの私か?
 そんなわけで「さくら寮日誌」も今回をもって一区切りとさせていただく。これまでご愛読、ありがとうございました! またお会いする日まで、しばしのお別れ、「ポッカンマイ、ちゃーお!」


卒業生を送る会にて。気分はもうご隠居さん。

スタッフも次々と結婚していく。うれしいようなさびしいような。

さくらプロジェクトの新ピックアップトラック贈呈式。

 

 

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ファランのロングテイヤー‐亟蕕膿誉犬魍いた 84歳のロニー・ラビン

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.03.14 Monday

 



ロニーがまだ74歳の頃、
彼女はカリフォルニア州、
ロスアンジェルスのアパートに猫6匹と暮していた。
アメリカで74歳の女性が一人暮しをするには年金収入だけではきつい。
家賃、車の税金と保険、自分と猫の食費、
医療費を払うと、あとは何も残らない。
毎日の生活は同じことの繰り返しだし、
物事に感動することも滅多になかった。
このまま年をとっていくのかと思うと心が重かった。
どうすれば意味のある引退生活ができるのか?
これといった考えも浮かばなかった。
何か冒険がしたかったし、何かに一生懸命になりたかった。

そんな頃、従兄弟夫婦が家財道具すべてを売り払い、
19歳の娘を残して遠くのチェンマイに移り住んだ話を聞いた。
2005年の2月にチェンマイを下見に来た。
オーキッドホテルに宿を取って、
2週間でチェンマイで暮せるか否かを決めるのが目的。
まずはタイ人の優しさの心を打たれた。
ロニーがホテルの前の横断歩道を渡ろうとすると
若い人が手を取って沿うように一緒に渡ってくれる、
アメリカではありえない事た。

乗り合いバスやタクシーは安いしすぐ来るので、
車なしでも便利な生活ができそうだ。
ネットと口コミを頼りに方々のコンドーを見て回った。
自分の足で一軒ずつ部屋の中を見て、値段、広さ、環境などを較べて、
チェンマイで生活していかれる自信がついた。

次は一番気にかかっていた医療機関に行ってみると、
最新技術を取り入れた病院がいくつかあるし、
ドクターや看護婦は英語をしゃべってくれる。
友達になれそうなファランにチェンマイの住み心地を聞いてみると、
「ここは引退するにはいい所ですよ」
「すぐいい友達ができますよ」
「昔からアジアに散らばるファランが住み着いた所なんですよ」
という答えがあった。
すぐにロスの家を引き払ってチェンマイに来る決心がついた。

2005年5月、大きなスーツケースを下げて、
ロニーはチェンマイに骨を埋めるつもりで来た。
下見の時は毎日忙しかったのに、
コンドーが決まり家財道具がそろうと、
チェンマイで何をして暮らしたらいいのかわからずに困った。
行動力があるロニーは早速「友達つくり活動」を始めた。
それは、具体的にはこんな活動だ。

ボランティア団体に入り恵まれない子供の援助、
ファラン女性のランチ交遊会、
YMCAでタイ語の勉強、
絵の腕が落ちないようにアートスタジオに通いデッサン、
自分にあった読書会を探しメンバーになる、
盲目の人に英語で音読する奉仕活動、などなど…。

ロニーが赤ちゃんだった頃、
お母さんは「この子は誰にでも笑いかけるのですよ」
と人にこぼしていたそうだ。
人見知りをしないし、
誰とでも友達になれるロニーの性格だからこそ、
74歳でチェンマイに一人で来る大冒険ができたのだろう。

今年でチェンマイ暮らしが9年になるが、
同じコンドーにずっと暮している。
エレベーターに乗るたびに赤ちゃんの時と同じような笑顔で
ロニーは誰にでも自己紹介をする。
「こんにちは、私はロニーです、
あなたは何階にすんでいるのですか、
ああ10階なら私はXXさんと友達なんですよ」
こんな風にロニーの「友達つくり活動」は、
9年たった今でも続いている。

文・写真 サミュエルス・圭子

 

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クンター流カレン族生活体験 その31 ピー様にお詫び参り(301号掲載)

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.01.03 Sunday

 


このせせらぎの辺りが手強いピー様の住処らしい。

 かなり以前のことだが、女将ラーの髪の生え際に妙なカサブタのようなものができてきた。隣家のモーピー(霊医)に頼んでお祓いをしてもらったり、怪しい塗り薬をすり込んだり大わらわだ。
 彼女の場合、たいていはこれで治ってしまうのだが、今回はなかなか炎症が改善しない。そこでとうとう「これはピー様の祟りに違いない。お詫びに行くから一緒に付いて来て」と言い出した。病院に行くのが先決だと思うのだが、「これがカレン族のやり方なのだ」と言い張られると、無下にも断れない。
 目指す場所は、川向こうの棚田を突っ切った先にある川の支流である。なぜここかと言うに、以前親戚の田植えの手伝いをした時どうにも我慢がならず、水辺の木陰に隠れて小用を足したというのである。 
 その際、いつもならば事前に樹木や水のピー様(精霊)に丁重な断りを入れるのだが、その時は急を要したので事後承諾(?)という形になってしまった。つまりは、その無礼が樹木と水のピー様の怒りに触れたということらしい。とりわけ、この場所での祟りの度合いは強く、断りを入れずに放尿した男性の場合、局所が異様に腫れ上がるといった手厳しい返礼を浴びているのだそうだ。
 せせらぎの手前に辿りつくと、いつにない神妙な顔でここで待っていてくれという。むろん、撮影は不可。人の目に触れることなく、持参の米を木の根元や水辺に備えてお詫びをするのが流儀なのだそうな。張りつめた気配を感じたのか、同行した飼い犬たちも付いていこうとしない。
 数分後、まだ緊張した面持ちで姿を見せたラーはこちらに目もくれず、さっさと畦道を戻り始めた。お詫びを済ませたら、よそ見をしたり振り返ったりしてはいけないのだ。
 日本人の感覚からすれば、実に馬鹿馬鹿しい話かも知れないが、彼女はこうやって40数年間を生きてきたのである。こうした精霊信仰は、きわめて日常的なものだ。たとえば、薬草取りや魚獲りなどで野山や川で食事をする時には、木の根元や川辺に焼酎を注ぎ、米やおかずをバナナの葉に包んでお供えにして「ちょっとこの場所お借りします」とお祈りをするのである。
 ところで、タイ語のピーという言葉には「精霊」を初めとして「祖霊」「霊魂」「悪霊」「幽霊」「お化け」などの幅広い意味が含まれているらしい。
そして、村の衆はとりわけ死後の「霊魂」をかなり身近に感じるようだ。たとえば、村の若い衆が亡くなったあと、台所で料理をしていたラーが「ヒッ」という奇妙な声をあげた。見ると横座りをした膝元にチョーン(アルミ蓮華)が転がっている。
「どうした?」
「ガス台の上から勝手に落ちてきたんだよ。誰も触っていないのに…」
 顔がこわばり、両腕には盛大な鳥肌だ。こういうことには、私はきわめて鷹揚かつ鈍感である。
「ふーん、たぶん彼が天に昇る前に挨拶に来たんだろう。ここでよく焼酎を飲んだり、料理づくりを手伝っていたもんなあ」
「やめてよ! ああ、怖い」
 すぐさまぐい呑みに焼酎を満たし、台所の隅に垂らして長いお祈りを始めた。その夜は、なぜか飼い犬たちがしきりに吠えた。ヘッドランプで外を照らしても、何も見えない。ラーによれば、これも死者の霊魂がさまよっている証拠だという。おかげで、何度も外付けのトイレ行に付き添う羽目になった。
 朝になると、今度は息子たちが騒いでいる。なにやら夜通し、何かが揺れるような感じ、あるいは何かを叩くようなカチカチという音が続いために怖くて眠れなかったのだという。
 とりわけ、次男の方が感じ易いらしく、夜になって葬儀の手伝いのために暗い道を通るたび、弟や友人を大声で呼んでは同行を求めたらしい。
 つまりは、なんにも感じないのは家族の中で私だけということになる。
 知らず知らずのうちに、いろんなピー様にとんでもない無礼を働いているのかもしれないが、まあ知らぬが仏、もとい、「知らぬがピー」ということで村に潜むピー様各位には平にご容赦願いたいものだ。



文・写真 吉田 清

(筆者プロフィール)
チェンマイ県オムコイ郡在住。カレン族生活体験民泊小屋番頭、ときどき物書き。ブログ「タイ山岳民族の村に暮らす」。著書『「遺された者こそ喰らえ」とトォン師は言った―タイ山岳民族カレンの村で』(晶文社)

 

 

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クンター流カレン族生活体験 その33 手作りタンブンセット顛末(305号掲載)

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.01.03 Sunday

 


数奇な運命をたどった手作りタンブンセット


 わがソボムヘッド村には、寺がない。従って、各種のタンブン(寄進)行事の際には、町(正しくはオムコイ村)の外れにあるワット・セントーンという寺まで出かけて行くことになる。
 この寺は子づくり祈願で有名らしく、オークパンサー(雨季安居明け)のタンブン祭には、チェンマイ辺りからもお礼参りにやってくる人々が多い。
 さて、ここで暮らす住職や修行者、小坊主さんたちは10人足らずだ。だから、チェンマイのようには目立たないのだが、早朝にはリアカーを引いた一団が町中を托鉢に歩く姿を見ることができる。
 そして時々、町から2キロほど離れたわが村にも托鉢にやってくる。その時には、たいてい前日の夕方に有線放送でその旨が伝えられることになる。
 ある朝のこと。女将のラーが、とんでもない早起きをしてドタバタやり始めた。水場の音、米を研ぐ音、炊飯器の蓋をガチャンと閉めて米を炊き始める音、台所で何かを刻む音、鍋がガチャガチャぶつかり合う音、庭をせかせかと歩く音。ついでに、大きなくしゃみ、鼻歌。うるさいなあ、もう。
 一体、何をやっているんだ? 寝ぼけ眼で台所を覗くと、すでにおかずができていて、それをビニール袋に詰めているところだった。
「こらこら、うるさくて眠れんぞ」
「タンブンだよ、タンブン。昨日放送で言ってたでしょ。今日は村にお坊さんたちが来るんだから」
 功徳、寄進、喜捨などと訳されるが、ここでは僧侶たちへの托鉢に応じて食物を贈ることを指す。その際には贈る方が履物を脱ぎ、道路にひざまずいて、答礼としての読経を受けるのである。
 普段はとてもいい加減に見えるタイ人だが、仏教への帰依心は深く、たとえ相手が小学生くらいの小坊主さんだとしても、年輩の人たちを筆頭に同様の礼を尽くすのだ。
「素敵なタンブンセットも作ったんだよ」
 おかずとご飯のビニール袋詰めが終わると、そう言いながらラーが鼻をひくつかせた。母屋玄関の方に引っ張ってゆくと、テーブルの上を指差す。
 見ると、庭の花や薬草の葉っぱや羊歯などを使った手製のセットが出来上がっている。むろん、中にはロウソクと線香が差し込まれている。
「おお、いいねえ。なかなか、きれいだ」
 通常、こうしたセットは仏具店や寺前で購入するのだが、こうした心のこもった手作りは僧侶たちにも喜ばれることだろう。なかなか、いい心がけである。願わくば、仏陀や僧侶にだけでなく、番頭さんに対しても常にこのような敬虔な心で接してくれれば有り難いんだけどなあ。
 さて、準備は万端なのだが、予定の7時になっても「カーン」という鐘の音が鳴らない。通常は僧侶が村に入ると、先導の小坊主さんがゆったりと間を置いて鐘を鳴らしつつ前触れをして歩くのである。
 おかしいなあ。15分ほど待って、ラーが血相を変えて外に飛び出して行った。すぐに戻ってくると、
「お坊さんたち、今日は来ないんだって!」
「はあ?」
「放送する人が、日にちを間違えたみたい」
……
 間違えたのは、お前さんだろうが! 
 前例からすると、その可能性の方がきわめて高いのである。眠りを妨げられた腹いせにそう怒鳴りたいところだが、それは仏陀の心には叶わない。
 番頭さん、まるで仏のような顔を装って、行き場を失ったタンブンセットを母屋内の仏壇と宿脇の祭壇に供えて、言い訳混じりのお参りを済ませた。
 当人は、「タンブン、タンブンだよお!」と大声で叫びながら、ビニール袋に詰めたおかずとご飯を、近所の従姉や甥っ子たちに配っている。やれやれ。 
 こんなとんでもない信徒もおりますが、どうかご勘弁のほど。ナマンダブ、ナマンダブ


「子づくり寺」として有名なワット・セントーン

文・写真 吉田 清

(筆者プロフィール)
チェンマイ県オムコイ郡在住。カレン族生活体験民泊小屋番頭、ときどき物書き。ブログ「タイ山岳民族の村に暮らす」。著書『「遺された者こそ喰らえ」とトォン師は言った―タイ山岳民族カレンの村で』(晶文社)


 

 

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クンター流カレン族生活体験 その32 今年は、豊作!(303号掲載)

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2016.01.03 Sunday

 


鎌を手に横一線になって刈ってゆく様は壮観だ。

 わが村では11月の声を聞いてから、ようやく稲刈りが始まった。今年は深刻な水不足だったので、
田植えも7月一杯まで続き例年にない遅い出足となったのである。
 去年も水不足で不作だった。おかげで、田んぼを持たないわが家では余剰米を分けてもらえず、夏場以降には町の米屋でタイ米を買う羽目になった。わが村の米は、ジャポニカ種である。
 ああ、今年も村の旨い米が食えんのかなあ。
 そんな心配をしていたのだが、10月に入ってから川向こうの棚田を歩き回ってみると、たっぷりと実をつけた稲穂が黄金色に輝き、山風に揺れながら香ばしい稲の薫りを放っている。「クンター、今年は米の出来がいいぞお」 顔を合わせる村の衆の笑顔に、ホッと嬉しい溜め息をついたのだった。
 さて、稲刈りの日にちが決まると村の衆が鎌を手に集まって来て、順繰りに手伝い合う。わが村では写真のように根元から30センチほどの高さで刈り取り、刈った稲は数束ずつ穂先が地面に着かないようにその上に載せていく。日本のように乾燥場を作る手間を省いて、刈りながら乾燥させてゆくわけだ。天日で1〜2日干したら、棚田の中で一番広い場所にビニールシートを敷き、棚田中に散らばった稲束をここに担ぎ集める。稲束は意外に重く、これを頭に被るようにして運ぶ作業は首、背中、腰をきしませるほどに厳しい。ビニールシートの回りにぐるりと稲束が積み上がると、真ん中に簀子や古タイヤを置いて脱穀にかかる。
 2本の竹棒の先をタコ糸でつないだ手製の「挟み棒」で数束の根元を挟みこみ、これを頭上に振り上げてから簀子や古タイヤに叩き付けるのだ。数回叩き付けると、籾は完全に飛び散ってしまう。これを確認し、体を外側に向けて棒先をくるりと回して糸をほどきつつ押し出すようにすると、藁束は彷彿線を描いて稲束の外に飛んでゆく。
 あとはひたすら、これを繰り返すのみだ。この作業は、明日の雲行きが怪しくなってきた場合、ヘッドランプを灯しつつ夜間にまで持ち越される。疲れ切って家に戻り水浴びをすると、首や肩に稲束の重みで付いた内出血の痕が残ったりもする。
 籾米をビニールシートに広げて1〜2日乾燥させたら、これを飼料袋に詰め込んで、いよいよ各自の米蔵まで運び込む。最近はかなりの山奥までピックアップ・トラックが入り込めるようになったとはいえ、場所によっては30キロに近い袋を担いで数キロ歩いたり、腰まで浸かる川を渡って向こう岸まで運んだりしなければならないのだ。それも、何度も何度も何度も何度もである。なにしろ年分の米なのだ。腰痛持ちの私にはとても無理な作業であるが、すぐそばで村人の唸り声や肉のきしみを感じているだけで息が詰まりそうになってくる。
 すべては、機械に頼ることのない手作業。自分の肉体だけが頼りの重労働だ。それだけに、無事米蔵に新米を収め終えたあとの村の衆の顔は、言い様のない安堵と充足感で満たされるのである。
 今年は、収穫祭も兼ねたローイクラトン(灯籠流し)が月末になるから、町の特設リングで行われる「村別対抗ムエタイ合戦」は、稲刈りを終えた安堵感も伴って爆発的な盛り上がりを見せるに違いない。



乾燥させた稲束を凧糸で挟んで簀子に叩き付ける。


籾米を飼料袋に詰めて、村の米蔵まで運び込む。
 


文・写真 吉田 清

(筆者プロフィール)

チェンマイ県オムコイ郡在住。カレン族生活体験民泊小屋番頭、ときどき物書き。ブログ「タイ山岳民族の村に暮らす」。著書『「遺された者こそ喰らえ」とトォン師は言ったタイ山岳民族カレンの村で』(晶文社)
 

 

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高齢者ケアの実際 セミナー開催のお知らせ −1

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2015.09.25 Friday

 

今号のピックアップコラムは
「ファランのロングステイ」や「どうしてチェンマイ」のコラムでおなじみの
サミュエルス・圭子さんによる
チェンマイ在住のファラン(西洋人)による高齢者ケア活動のお話です。
興味を持たれた方は、
11月に開催される高齢者ケアのセミナーにご参加ください。
(セミナーの詳細は次号をご覧ください)


高齢者ケアの実際       セミナー開催のお知らせ −1

チェンマイで人生の最後を送る、
これが選択肢の一つとして考えられるようになってきました。
その時、尊厳死、介護、ホスピス、費用、次々と疑問がでてきます。
チェンマイに暮らす高齢の外国人は、随分前から草の根運動をしてきました。
5年間の活動で学んだ事を日本人にも分かち合いたいと、
11月第一週にセミナーが開催されることになりました。
筆者の私が通訳をしますので、
英語が得意でない方も受講することができます。
今回はファラン(西洋人)の高齢者が立ち上げた高齢者ケア活動をご紹介し、
次号ではセミナーの詳細をお知らせします。



1.    大病をしたり、末期をチェンマイで迎える場合は?
この問題にとりくんでいるのが、「癌サポートグループ」
チェンマイで癌治療をして元気になった人達、
末期を在宅ホスピスで迎えたいと希望する人達の草の根的な運動から始まった。
なお過去の活動内容やお世話をした方々の話は
本誌に掲載済みの記事を参照してください。
http://chiangmai.deepquestion.info/ (ちゃ〜お過去ログ癌サポートグループ をクリックしてください)

中心になって活動しているボランティアの数は6人、
癌体験者以外には、アメリカで引退した医師、
イギリスのホスピスで看護婦をしていた人、
夫を癌で亡くしたタイ人が中心になって活動している。

癌診断がでたばかりの人は精神的なショックで
医者の言うことがよく理解できなくなることがある。
そんな時、同じ道を通ってきた癌体験者の話しは頼りになる。
また患者の立場でのアドバイスが受けられる。
病院、医師、治療方法の選択、術後管理など、
どれをとっても冷静な判断をしなければ後に悔いが残る。
末期の方には介護、ホスピス、死亡時の手続きまで相談に乗ってもらえる。

去る8月21日、YMCAにて日系4団体共催で日本の高齢者介護についての講演会があった。
ほぼ80人主席者はから活発な意見や質問がでた。
「介護を日本で受けるつもりでいたのですが、
日本の状況が厳しくなってきているので、
チェンマイで受けようかと今考えているところです」
主催者側からは
「末期医療をどうするか、
自分の気持ちを周りの人にはっきり伝えておかないと、
回りの人が困りますよ」
との意見がでた。
最後をチェンマイで迎えようとしている日本人の数が確実に増えてきているようだ。


2.    道で行き倒れになった外国人を見たら何処に連絡したらいいのか?

2015年8月10日号ニュースクリップに掲載された海外困窮邦人援護統計によると、
2013年度ではバンコク大使館の困窮邦人用語数は世界で一番、
チェンマイ領事館の邦人擁護数は世界で19番となっている。
擁護されるのは60−69歳の男性が多くなっている。
大使館の中でバンコクの邦人擁護数が世界で一番高いのは何故だろう?
同新聞の説明によると、
タイに行けばきっと安く暮らせるだろうと気楽な気持ちで来る邦人が多いからだそうだ。

一方、ファラン達は困窮高齢者の問題にどう取り組んでいるのだろう?
イギリス領事官とアメリカ領事官からの、
「行き倒れになったり大病にかかったりした
ファランの援助を領事館に依頼されても対応できないでいる。
人道的にどうにかしたくても出来ないで困っている」
という話を請けて、
fファランの有志が立ちあがり、
困窮外人を相互扶助する会として
ランナーケアネットワークが2011年に発足した。(www.Lannacarenet.org)

会長はイギリス名誉領事Ben Svasti Thomson、
副会長にアメリカ領事館のJane Houseton,
リエゾンにNancy Lindley、
他には引退した医者、看護婦が中心になっている。
ボランティアの数は30人。
お世話した高齢者は平均で年間60件になる。
次号のちゃ〜おに続きます。



 

 

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可能性秘めたラーンナー音楽

カテゴリー: 今号のピックアップ | 2015.09.11 Friday

 


今号のピックアップコラムは、297号に引き続き、
北タイに伝統楽器を紹介する「癒しの音を奏でる ラーンナーの楽器」から。
執筆者は、沖縄出身のシンガー&三線奏者で
現在、チェンマイにてラーンナー楽器を学びながら、ラーンナー音楽を研究中の河原弥生さん。
今回はラーンナー伝統音楽を用いて社会に貢献する活動のお話です。

 前回に引き続き、女性刑務所で北タイの伝統楽器を教えている、クルー(先生)トムの活動を紹介する。クルーの依頼で私たちが演奏したことにも触れる。
「音楽療法 北タイ音楽室」という部屋に案内されて待っていたのは、40名程の受刑者だった。彼女たちは、クルートムの登場に胸躍らせていたが、クルーの後方に立っている見慣れない日本人をも笑顔で迎え入れてくれた。私たちが挨拶を済ませると、クルーはチューニング(調弦)を始めた。彼女たちが練習する、サロー(擦弦楽器)、スン(撥弦楽器)、タフォーン(打楽器)、クルイ(吹奏楽器)の4種類のうち、サローとスンは、クルーがひとつずつ手に取って、チューニングしていた。チューニングされた楽器が其々の手に渡ると、全員で音合わせ。ドーソードーソーを繰り返し、スケール(音階)でピッチ(音高)を確認。その後、全員で《ローイメーピン》を演奏したが、受刑者の中にはタイ語が分からない者もいるため、クルーは絶えず、ドレミを口ずさみメロディを知らせていた。演奏は何度も繰り返されたが、飽きのないよう、パートやソロで演奏することもあった。互いの音を聞ききながら助言できるよう、クルーが工夫しているのだ。計4曲、《ソーイ・ウィアンピン》《クラーブ・チェンマイ》《ムーハオ・チャオヌア》も同じように練習した。私も練習に参加したが、女性たちは皆、目が合うとニコッと笑ってくれる。こちらも自然と笑顔になる。彼女たちの屈託の無い笑顔や、休憩中の楽しげな様子を見て、一瞬ここがどこだか分からなくなってしまった。それほど、皆、表情が明るいのだ。
 何か視線を感じる・・・・・・クルートムだ。クルーの視線に応えるべく三線を取り出す私。その視線は友人へも注がれる。私たちは、沖縄の《安里屋ユンタ》を掻い摘んで説明し、囃子を皆にお願いした。1度練習します、といってお手本を見せた。では、ご一緒にと声を掛け、高らかに「ヒーヤッ」と叫ぶと「ハーイヤッ」と返ってきた。その反応の良さといったら、小気味よく、ついつい、何度も「ヒーヤッ」と投げてしまうほどであった。私が弾き歌い、友人が太鼓を軽快に打つと目を輝かせながら聞いてくれた。途中、調子に乗って「スイッ、スイッ」と付け足すと、そこにもうまく反応して、一緒に声を出してくれた。そして、喜納昌吉の《花》タイ語で《ドークマイハイクン》を彼女たちに歌ってもらった。
私は、クルートムが普段から、彼女たちの心をうまく掴み、内にひしめくストレスを発散させてあげていることに気が付いた。現に、受刑者の1人であるリンさんは、「ここでの生活が時々窮屈に感じるが、クルートムや皆と演奏すると開放感が得られる」と言っている。また、「北タイの伝統楽器を学ぶことで、自国の伝統文化を守ることにも繋がる」と言った。どこからどう見ても、私の目には純朴でハキハキとした明るい少女にしか見えなかった。しかし、そのあどけない顔から語られる内容に驚きを隠せなかった。彼女は23歳、6歳の子どもがいる。何より、血の気が引いたのは、終身刑というのだ。彼女もまた、北タイで問題視されている、家が貧しく、家族を養うために麻薬を売ってしまった一人なのである。入所して3年が経つと言うリンさんは、受刑者が着ている制服の色や袖のラインで罪の重さが分かると話した。彼女の袖には2本の赤ラインが引かれていた。あまりにもショックを受けていた私たちに、彼女はこう続けた。「クルートムは徳のある人、罪を犯し、精神的に不安定な私たちに、とても優しく、落ち着いた態度で教えてくれる。それがどんなに有難いことか」と。クルートムは、彼女たちのアイドル的存在でもあるそうだ。真面目で誠実な人柄だが、ときには面白いことを言って笑わせてくれるそうだ。
 あっという間に3時間が経った。私たちが、お礼を言って立ち去ろうとすると、何名かが近付いてきて、感想を述べてくれた。マイクを握って《ドークマイハイクン》を歌ったオーイさんは、「歌っているときはドキドキしたけど、楽しかったです」と恥ずかしそうに言った。中には、私たちの演奏を聞いて、着物をイメージしたという感想もあった。何はともあれ、ありがたい。最後の最後まで、私たちの側から離れようとしなかったリンさんは、ありったけの笑顔で、「今日は楽しかったです、ありがとう。来週も来てください」と言った。その言葉につられ、近くにいた受刑者からも「いつでも来てください」の言葉が寄せられた。クルートムも満足げにその様子を見守っていた。
 「音楽療法 北タイ音楽室」を背に、私はクルートムへ御礼を告げた。
クルートムの思いは確実に彼女たちに伝わっている。クルーの活動に同行させてもらい、音楽の力は偉大だ!と再確認した。

 

 

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