チェンマイ発・ちょっとディープな北タイ日本語情報誌CHAO『ちゃ〜お』は毎月10日、25日に発行。本文へスキップ

チェンマイに到着 (185号)

カテゴリー: タイ王国万華鏡 | 2010.12.25 Saturday

 

 右は大山氏ご夫妻
 古都の駅に着いたのは午前10時半だった。バンコクを出たのは昨日の5時ごろだから、751キロの距離を17時間半で走ったことになる。時刻表どおりだったかは確認していないが、それでも特急列車だったと思う。しかし、時速43キロぐらいである。ホームを出ると、大勢の輪タク車夫が待ち構えていて、競うように近づいて来た。そのうちの1台に乗ると、車夫の案内でチャイナローンというホテルに着いた。たぶんピン川を渡ったところにあるターペー通りの近くだったのだろう。素泊まりで一泊45バーツだった。日本とは違って一室の値段だから、2人なら半額になる。どんなホテルだったかは記憶にも記録にもない。疲れていたので少し昼寝をしてから、ターペー通りの土産物屋をひやかすと、美人ばかりの売り子を揃えている店もあった。私のタイ語はまだ下手だったはずだが、店員との会話は楽しかった。それから、どこかへ昼食に立ち寄ったようだが、私の方は下痢気味だったので、ジュースを飲んだのみ、と日記に書いてある。歩いてホテルに戻った。
 その日の夕方、美術工芸家で漆の仲介業を営むという大山平八郎さんの家を訪ねるのに多少の苦労をした。が、見つかった時は嬉しかった。夫人と二人でお住まいのようで、大山さんはかなり前からこちらに定住、駅の西方にあるサンカンペーンのあたりにタイ・ラッカーウェアー社を経営していたらしいことが後で分かった。タイ語の読み書きが出来、東南アジア史に関する碩学・石井米雄氏を尊敬しているらしく、話がそのことに及ぶと多弁になった。石井氏がかつては松山先生からタイ語を学んだことも知っていた。
 その翌日、大山さんの案内により、ジープであちこちの寺院などを見学した。まずは古都の城壁、スアンドーク寺院、ジェットヨート寺院、クータオ寺院、チェディルアン寺院、プラシン寺院などを。……このうち、クータオ寺院について、大山氏はこんな説明をした。「かつてチェンマイとビルマとの戦いの勝敗がなかなかつかないので、仏塔の建立比べをすることになり、その結果この寺が出来たのだそうです」
 ああ、そんなことが本当にあったのだろうか? 事実だとすればなんと平和的な解決なのだろう、と私は思った。が、かつて1558年、チェンマイ(ラーンナータイ王国の首都であった)はビルマに滅ぼされ、断続的ながら216年間もビルマの属国になった。トンブリー朝時代にはタークシン王によってビルマ軍を撃退してもらったが、そのためにトンブリー王国の属領となり、それに次ぐ現ラッタナコーシン王朝においても同様だった。ラーマ5世の時代になると地方の行政改革が進められ、その結果タイ王国に統合された。ここがチェンマイ県となったのは立憲革命の翌年で、1933年のことである。
また、チェディルアン寺院は、あの世界大戦中日本軍の重要な北部基地となり、そこでタイの紙幣などが印刷されたらしい。が、終戦直後日本軍に対する一部市民の反感が高まって不穏なことが起きそうになると、トラブルを避けたい日本兵たちはこの寺院の地下壕へ逃げ込んだという話を聞いたことがある。

ウアングさん
 ホテルへ帰ったのは昼前だった。食事をしてから私は一人でターペー通りへ散歩に出た。先生がお疲れの様子だったからである。昨日立ち寄ったことのある土産物店を通りかかると、そこに立っていた売り子がこちらを見て微笑んだ。可愛らしい女性だと思った。私が店に入ると、まず簡単な挨拶を交わし、タイ語による二人の会話が始まった。今にして思えば、私のタイ語が流暢であるはずがないのだが、なんとか通じた。
「どこから来ました?」
「日本から旅行に来ました」
 やがて話が発展し、富士山とサクラの話、そしてチェンマイの話になった。チェンマイのことは、当時の私にはよく分からないことがたくさんあった。傍にいた中年の婦人が、「チェンマイの女性は美しいですか?」と訊いたので、「はい、そうです」と答えると、「この人は美しいですか?」と訊いてくる。私が頷くと話が意外な方向へ発展した。はっきりとは分からなかったが、彼女は日本へ行ってみたいらしい。しかし、それは大変難しいことである。そこで冗談ながら、「日本へ連れて行ってあげましょうか」と言うと、彼女は本気になったらしく、嬉しげに笑った。と、こちらの名前と職業を訊いたので、ためらわずに答えた。彼女の名前はウアン・パイで、タイ文字で美しく書いてくれた。ウアンとは北部に産する蘭の花のことで、こちらの若い女性の代名詞にも使われているらしい。パイはたぶん苗字なのだろう。ついでに住所も書いてくれた。
 いつの間にか近寄ってきた近所のおばさんが、興味深げにこちらを見ている。やがて両方の人差し指をくっつけながら私に言った。
「この人を奥さんにしなさい。よく似合うから。二人で日本へ行けばよい」
皆が笑った。彼女の写真を撮り、二人が並ぶ写真も撮ってもらった。皆がこちらを眺め、相変わらずにこにこしている。すると突然、ウアンが言った。
「日本には奥さんがいるんでしょう? 子どもが二人もいるんでしょう?」
「冗談はよしてくれ!」
 私は本気で言った。独身であったし、こんな冗談を人に言われたことがなかったからである。私の生真面目さに爆笑が起こった。タイ人は冗談が好きで、日常的に冗談を楽しむのが普通である。これを冗談で言い返せたら面白かったのに。彼女は日本へ帰ったらお手紙をくださいと言った。さっきの写真を送りますから、と私は答えた。

 

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初めてのタイ王国  (183号)

カテゴリー: タイ王国万華鏡 | 2010.11.25 Thursday

 

左は船川君、中央土田君、右筆者
 1964年7月29日、関西汽船の貨物船「せれべす丸」で横浜港を出発した私は、台湾の基隆に3日、高雄に3日、それから香港に2日寄港してから、8月18日の朝、目的地のクローントゥーイ港に到着した。生まれて初めてのタイ王国訪問である。
 税関吏による荷物検査が終ると、東京外大で共にタイ語を学んだ東洋綿花駐在員の土田君が、小船で船まで迎えに来てくれた。上陸するとありがたいことに、タイ語学科の恩師である松山納教授がにこやかに立っておられ、飛び上がるほど嬉しかった。先生はつい数日前に航空便でやって来られたのである。土田君はここへ来て1年以上になる。色が黒くなり、タイ語はかなり身についているようだった。私は先生と一緒にタクシーで中央郵便局近くの花屋ホテルに向かった。松山先生はすでにここに泊っておられた。昼には、当時アジア経済研究所の研究員としてバンコクに滞在されていた田中忠治先生(後の東外大教授)ご夫妻が来訪され、こちらが昼食をご馳走になった。少し休んでから、先生と2人でホテルの近辺を散歩した。街は台湾と比べて実に活気付いている。車が多く、東京に住んでいるほどの緊張を感じた。程よいところでサームロー(三輪車)に乗ってホテルに帰る。5バーツだった。サームローという乗り物は近距離向きで、あまり安全な乗り物ではない。ひやひやしながらの乗車だった。
 6時ごろホテルで夕食、デザートにパパイヤが出る。入浴後、外語大に留年中の後輩鈴木君がやって来た。彼はこちらの会社に勤務しているそうである。先生との3人でプラトゥーナーム市場へ行った。ここは24時間営業だそうである。ビールを飲みながらいろいろなことを話し合っていると、鈴木君はこちらの事情が詳しいばかりか、タイ語がうまいと思った。やはり毎日使っているからなのだろう。彼と別れてからタクシーに乗り、ルムピニー公園を通過して、ホテルに戻った。
 私にとって初めてのタイ王国、幸いにも海外への渡航が自由になった年でもあり、当時の私は都立高校の英語教師で、夏休みを利用しての渡航であった。今と比べると驚くほどの円安時代で、1ドルが360円、1バーツが20円の交換レートであった。航空運賃はかなり高かったので、往路を船にしたのだった。が、楽しい船旅であった。
 私がタイ語を学んだのは、1956〜1960年までの4年間、卒業後は英語教師になったために、その間タイ語を使うことはほとんどなかった。が、いずれはタイ王国の土を踏んでみたいと思っていた。そして、まだ誰もやっていないタイ文学の研究と紹介、そしてタイを舞台にした創作活動への道を密かに志していた。
 19日から23日までの5日間、私たちは実に多くの場所を訪れたし、タイ人と積極的に話をした。先生と2人の場合が多かったが、単独でも行動した。行ったところを並べると、まずは水上マーケット、暁の寺、ワット・ポー、タマサート大学、エメラルド寺院、王宮前広場と古本市、大理石寺院、ルンピニー公園、オリエンタル・ホテル周辺など、それから、汽車でナコーン・パトムを往復したこともあったし、土田君と住友商事の駐在員だったタイ語学科同期の船川君がホテルへやって来て、深夜まで語り合ったこともある。

中央は松山先生、他はタマサート大学生 
 8月24日、私は松山先生と一緒にチェンマイ行きの汽車に乗った。5時5分発だったとわが日記には書いてある。そして、こうも記録している。

【向かい側に坐ったのは、初老の婦人とまだ若い女性で、恋人らしい青年が見送りに来ていた。右手のコンパートメントには老婦人とマニキュアをした女性が3人、くつろいだ様子で坐っていた。そのうちの一人はいかにもすれた水商売の女性に見えるが、あとの2人は純朴そうな顔をしている。が、3人ともやはり同業者らしい。その1人であどけない顔の女はタバコをよく吸った。彼女らは実によく食べる。菓子や果物などをつまみ、ほとんど口を休める暇がないくらいだった】
 先生と食堂車へ足を運び、何を食べたかは覚えていないが、ささやかな夕食をした。と、勘定を払ってから気がついたのだが、定価よりも高く取られていることが分かった。車内に貼ってあるタイ語のメニューの値段とは明らかに違っているからだ。松山先生がそのことを追求すると、係りのボーイがその差額を返してくれ、逃げるように立ち去った。我々が外国人であることに気づき、外国人は多少のタイ語を話せても文字を読むことが出来ないと思ったのだろう。我々は大笑いした。やがてその係員がやって来たので、私は記念に彼の写真を撮ろうとカメラを構えた。が、彼は、これはまずいと思ったのだろう。脱兎のごとく客車の方へ逃げて行った。ずるいとは思うが、可愛くもある。
当日の日記には、次のような記述もある。

【同じ車内には英国人らしい女性の旅行者が4、5人いた。彼らは猿のような顔をしていて、実に醜悪だ。その表情には思い上がったような優越感さえも見える。タイ人の生活感情に自らを入れてみようともせず、自分らが文明社会の申し子であるかのような錯覚に陥っているのだろうか。タイの女性の方が美しい。色は黒く、唇は厚い。しかしながら彼女らは西洋から旅をしに来た女たちよりもはるかに美しい。車中で3時間ぐらいは眠っただろうか? 先生の方が寝つきはよい。真夜中でも駅毎に物売りの声がする。小さな子どもたちだ。「オーリアン、オーリアン!」 汽車は北に進み続ける】

(文と写真  岩城雄次郎)

 

 

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