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アルデンテなカノムチーン

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ65号 アルデンテなカノムチーン 平均的日本人の例に漏れず、私もかなりのラーメン好きである。ラーメンとバミーナームが同じかどうかという議論は別として、新しいバミーナームの店や屋台を発見すると、どうしても気になってそのまま通り過ぎることができない。それほど腹が減っていなくても、ちょいと味見をしたくてつい立ち寄ってしまうのだ。
 私の記憶によれば、こちらに住み始めた15年ほど前は、バミーナームの店はこんなにたくさんなかった。数にすれば、4〜5倍かそれ以上に増えたのではないか。中華風の屋根を取り付けたフランチャイズの屋台もまだなかった。クウェティオに比べると、バミーの存在感はずっと希薄だった。その傾向は田舎や山村に行くとさらに顕著で、たまに見つけたバミーを注文すると、スープのなかでも容易にほぐれないようなネチネチしたアルコール臭い麺が出てきたりして、「やっぱり頼まなければよかった」とよく後悔したものだ。
 その頃に比べると、田舎はともかくチェンマイ市内のバミーをめぐる環境は格段によくなっている。衝動的に知らない店に立ち寄ったとしても、ひどくガッカリするようなこともなくなった。かといって、大満足、大当たりの店に遭遇することも滅多にない。どこもそこそこのレベルはクリアしていても、ラーメン好きの琴線に触れるような逸品にはなかなかお目にかかれない。
 いったいバミーのどこが物足りないのだろう? スープに関しては注文をつければきりがないから、あの程度でよしとしよう。具については、以前より焼き豚(ムーデーン)のサイズが縮小し、その枚数も激減してはいるものの、諸物価高騰のなかでやりくりしようとする誠意が充分に窺える。普通のバミーのなかに日本のチャーシュー麺を上回る焼き豚がさも平然と浮かんでいたひと昔前と比べれば雲泥の差があるが、それでもよく健闘しているほうだろう。何としても不満なのが、麺のクオリティとその茹で加減である。要するに、肝腎の麺そのものに対するこだわりがほとんど感じられないのだ。
 イタリアのパスタの茹で加減を表現するアルデンテという言葉がある。「歯ごたえががある」とか「コシがある」といった麺の状態を意味する。パスタを茹でたとき、硬過ぎず柔らか過ぎず、芯がほんの少し残っているのが理想的で、その芯が歯に当たるときの快い感触をアルデンテという。大袈裟に指摘するなら、これはパスタの最重要概念であって、イタリアのレストランでアルデンテになっていないパスタが出てきたら、客は堂々とクレームをつけるらしい。これは何もパスタに限った話ではなく、蕎麦でもラーメンでも麺全般のおいしさを判断するキーポイントであるはずだ。
 ところが、タイのバミーではこのアルデンテな感覚が無視されていると言わないまでも、明らかに蔑ろにされている。味見をしようと立ち寄った店で、アルミのボールのなかに茹でておいた麺が見えたりすると、席につくまでもなくこりゃいかんと引き返すことになる。さらに、それをハサミで切ったりする光景などは、ラーメン好きにとって正視するに忍びない。日本人的感覚では「のび切った麺」なのに、タイ人は文句も言わずに旨い旨いと食っている。マレーシアのペナンあたりでは、シコシコした中華麺が堪能できるのに、タイ(とくに北タイ)はどうしてここまで麺に無頓着なのだろう。
 おそらくタイ人の麺のスタンダードは、日本人や中国人とはまったく別のところにあるに違いない。田舎の人に訊くと、昔の北タイの村ではバミーはおろか、クウェティオさえもなく、麺と言えば米粉から作ったカノムチーン(北タイではカノムセンと呼ぶ)だけだったとか。現在でも、私が住んでいるサンサーイなどのチェンマイ近郊の村では、クウェティオとカノムチーンはほぼ互角の勝負をしている。とくに自宅で作る麺料理としては、カノムチーンが圧倒的に優勢である。結婚式や葬式や村祭りでは、必ずと言っていいほどカノムチーンが出てくる。余談ながら、リス族はこれをメシと呼ぶので、日本人にはややこしい。
 カノムチーンのスープは、北タイでは骨付きの肉をグツグツ煮込んだナムニヨウが一般的で、それ以外に小魚の出汁のナムヤー、グリーンカレーのナムキヨウワーンなど、いろいろな種類がある。ココナッツ・ミルクを入れたスープは中部タイから来たスタイルで、本来の北タイのものではない。茹でておいた冷たい麺に熱いスープをかけ、ネギ、パクチー、インゲン、キャベツ、モヤシ、ケープムー(豚の皮を揚げたもの)、バイ・ホーラパー(ハーブの一種)、ニンニクの揚げたものなどをぶっかけて掻き混ぜながら食べる。スープの種類によって入れる具も違ってくる。
 スープはそれなりに旨いとは思うが、そうめんが目一杯のびたような麺はいただけない。箸でつかもうとするとすぐ切れてしまうので、たいていはスプーンですくうことになる。麺好きとしては、耐え難い屈辱的行為である。当然ながら歯ごたえなど皆無で、麺を食べているという実感に乏しい。見かけはれっきとした麺なので、肩透かしを食わされたような気がして、フラストレーションは溜まるばかりである。
 それなのに村人たちときたら、このいかにも頼りない麺が大好物なのだ。私の妻も夜間に小腹が減ると、わざわざ自宅から10km以上離れたワロロット市場までカノムチーンを食べに出かける。一杯7バーツとか10バーツだから確かに安いが、ガソリン代に見合うはずもない。道端に机を並べた薄暗い屋台でグニャグニャした麺を黙々と食っていると、無性に惨めな気分になってくる。
 カノムチーンは市場で茹でたものを買ってくるのが普通だが、市販の乾麺を利用する手もある。茹でたてなら、歯ごたえもあって捨てたものではない。麺つゆにつければ、小麦粉ではなくてもそうめん代わりになる。「どうだ旨いだろう」と自慢げに妻に食べさせてみたところ、「何これ? 柔らかくない」と不評を買ってしまった。所詮、食文化は価値観ではなく習慣であるということか。アルデンテなカノムチーンは、こっそりひとりで楽しむことにしよう。

(65号掲載)

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