チェンマイ発・ちょっとディープな北タイ日本語情報誌CHAO『ちゃ〜お』は毎月10日、25日に発行。本文へスキップ

<< 情けは人の為ならず | 最新 | 美しき黒髪のために >>

薪をくべる日々

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ76号 まきをくべる日々 ガソリンの値段がどんどん上がり続けている。この先、いったいどこまで上昇していくのか、もはや見当も付かない。現時点で、ガソリン95は遂に1リットル=30バーツを超え、ディーゼルでさえ27バーツ以上という、まさに異常なレベルに達している。
 私が日頃、運転しているのは経済的なディーゼル車のなかでも最も燃費がいいとされる「いすず」の旧モデルだが、それでもガソリン代としてお金が飛ぶように財布から消えていく。数年前までは、1回につき300バーツも給油すれば充分だったが、今はそれだとメーターがいくらも浮上しない。最低でも500バーツぐらい入れなければ、安心できない。満タンにすれば、軽く1000バーツを超えてしまう。ガソリンスタンドに寄る度に「もう勘弁してくれ!」と心の中で叫んでいる。
 おまけに幼稚園の送り迎えをする妻の車(当然ながら私の車より高級)のガソリン代もかかるから、我が家の台所は文字通り火の車である。妻には自宅から約30km離れた実家への里帰り回数を減らすようにきっぱり命令したいところだが、それを言うと途端に不機嫌になるのは判っているので、控えめに口ごもりながら懇願する。いずれにせよ、ガソリン代高騰に対する何らかの防衛策をとらなければならないところまで誰もが追い込まれていることは確かだ。
 チェンダーオの山奥の小学校に勤務する知り合いの校長先生は、チェンマイとの往復だけで600バーツもかかってしまうとぼやく。このままでは給料の大半がガソリン代に消えることになる。そこで、近々、自分の車をディーゼルとLPガスの併用システムに改造するつもりだという。もちろん改造費用はかかるが、一部政府からの補助金が支給され、LPガスのほうがガソリンより格段に安いので、その差額を計算すれば1年で元が取れる。1日も早く私の車にもこの併用システムを採用したほうがいい、と力説する。
 なるほど、こうした工夫は検討の余地があるにせよ、あくまで対症療法としての技術的方便に過ぎず、最終的な問題解決には至らない。陰謀めいた政治的思惑や投機的な市場操作などによって、安価であるはずのLPガスだってガソリン同様に一種の戦略物資であるから、いつ価格が急騰しないとも限らない。そもそも現代社会が石油や天然ガスなどの化石燃料に過度に依存していること自体が異常だというべきだろう。たかが燃料の価格なんかに一喜一憂するのも情けない。車にも石油にも頼らない、もっと悠然と構えた生活のあり方はないものか?
 そういった意味では、近代化が進み過ぎたモダンな大都会よりも、例えばラオスの古都ルアンパバーンのような大きくも小さくもない適度な規模の生活圏を基盤にした社会のほうが理想的なのかもしれない。たぶん昔のチェンマイの街にも似たような空気が漂っていたはずだが、今となってはその面影も薄れていくばかりである。
ルアンパバーンの表通りでは、10年前と比べれば車もオートバイも増えはしたものの、それでもまだ自転車が庶民の足として活躍している。街に流れるゆったりとした時間が自転車のスピードと程よく合っている。路地裏のラーメン屋を覗けば、かまどのなかで薪が燃えている。味気ないガスコンロで作るより、見た目にもよっぽど旨そうだし、実際に旨い。ルアンパバーンに限らず、ラオスの地方で台所の燃料として使われているのは、ほとんど薪である。港もなく山々に囲まれたラオスの地理的条件からすれば、燃料としてふさわしいのは、どこか遠い国の地下に眠っている石油やガスではなく、ごく身近な森林資源としての薪であることはあまりに明らかだ。
 メコンに面したシェンコックという北ラオスの寒村を訪れたとき、泊まった宿の脇に荷物を満載した大型トラックが停車していた。近づいて積荷を見たら何のことはない、木の小枝ばかりで拍子抜けしてしまった。その辺に落ちているような枝を山岳民族にでも拾わせれば、原価は限りなくゼロに近い。おそらく焚き付け用の材料としての需要があるのだろう。
 それを見て、かつてメーホーンソーンのリス族の村である家族と暮らしていた頃のことを思い出した。朝まだ暗いうちから、火を起こすのは当時10歳を過ぎたばかりの長女の役目だった。小枝や薪を細く割いた木片を組んで、巧みに火を起こしていく。紙を燃やせばいいように思うが、それだとすぐに火が消えてしまう。火がしっかりしたところで、順次、大きな薪をくべていく。
 この薪を探しに行くのも、そう簡単な話ではない。村の近くには落ちていない(あれば、すぐ拾われてしまう)ので、山に入って枯れ木をナタで切って、カゴいっぱいに背負って帰ってくる。これが大人でも腰が抜けそうに重い。あるいは、大きな木の場合は二人一組でノコギリを押し引きして適当な長さに切断し、それをまたナタで割っていく。私も一度やってみたことがあるが、へとへとになるほど大変な重労働なのだ。
 いくら大変でも、このレベルの燃料が山の暮らしにはちょうどよかった。何よりタダだから、いちばん経済的である。当時、村のなかで燃料として購入するのは、せいぜいランプの油ぐらいのものだった。
 ところが、最近では交通事情の発達などによって、山岳民族の村でもプロパンガス・ボンベが当然のように家の片隅に置いてあったりする。「薪で調理したものでないと、山岳民族料理の味がしない」などとブツブツ言うのは、部外者の勝手な理屈であって、当事者は自ずと楽な方へ楽な方へとなびいていく。それが人間一般の習癖というものだろう。「ガス代が値上がりしたら、どうするの?」と他人事ながら心配になってくる。まあ、そのときはまた薪を拾えばいい、というだけのことか。

(76号掲載)

気まぐれ一発!コラム 記事タイトル一覧へ

 

気まぐれ一発!コラム | Top