チェンマイ発・ちょっとディープな北タイ日本語情報誌CHAO『ちゃ〜お』は毎月10日、25日に発行。本文へスキップ

<< City Shark Fin | 最新 | 改訂版 『体験しよう日本の文化』  >>

だから花博には行かない

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.06.19 Tuesday

 

気まぐれ99号だから花博には行かない 4月に日本を訪れたタイ人の友人が桜並木に感激して帰ってきた。「わが国も見習ってラーチャプルック(花博の象徴にもなったタイの国花)をもっとたくさんまとめて植えればいいのに」とため息混じりの感想を漏らす。たしかに南国の陽光を黄色い花に凝縮したかのようなラーチャプルックは、桜に負けず劣らず美しい。それなのに、ラーチャプルックの名所があるという話は聞いたことがない。あの黄色い小さな花びらが風に吹かれて舞う様は、桜吹雪とはまた違った鮮やかな趣があるが、わざわざ立ち止まって眺める人もいない。
 思うにそれは、桜とラーチャプルックの比較の問題ではなく、花を眺める側の気持ちの違いなのだろう。寒い冬のあとにようやく花を咲かせては散っていく桜の姿に、日本人は「もののあはれ」、言い換えれば「いのち」のはかなさを感じて嘆息する。西行の「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」ではないが、桜の花の向こうに死が覗いている。だからこそ、なおさら美しく感じられるのだ。
 ところが、ここ南国タイでは、そこにもかしこにも生命の息吹が嫌というほど充満していて、たかが花ごときに「いのち」のはかなさを見ていたら、こちらの感受性がもたない。人が死んでも、タイ人がどこかあっけらかんとしているのは仏教的諦観だけでなく、こうした自然風土の豊かさの裏付けがあるからだろう。「死んだって、すぐ生まれるさ」とでもいうように、「いのち」が消えた余韻に浸る暇もなく、新しい「いのち」がどんどん生まれていく。
 ラーチャプルックとほぼ同じ時期に真紅の花を咲かせる火炎樹をほんの10僂曚匹良通擇ら育てたことがある。何も特別なことはしなかったのに、10年もたたないうちに2階の屋根にまで届くような立派な大木になった。冬がないこの地では、水やりさえ欠かさなければ、1年中休まずに木はすくすく伸び続ける。これだけ植物の生長が早いと、そのありがたみが薄れるのか、こちらの人は木の枝をいとも乱暴に切り落とす。樹形も枝ぶりもまったくおかまいなしだから、これではまともな剪定とは言えない。きちんとノコギリで切り落とす前にボキッとへし折るので、切り口はまことに痛ましい限り。お役所の造園予算をクリアするためか、やっときれいな花が咲くようになった並木道の木も根元からバッサリ切られ、また別の種類の木が新しく植えられていることもある。かくも無神経な「植物虐待」を目のあたりにすると、植物愛好家を自認するものとしては何とも悲しい気持ちになる。
 植物に対するこうした過度な同情心は、今にして思えば小学校高学年時代の担任だった先生からの影響がある。忘れもしない数十年前の秋の日、生徒たちが枯葉を集めて校庭の片隅で焚き火をしているのを見て、先生は「そんなことを教えたつもりはない」と嘆き悲しんで職員室に閉じこもってしまった。女の子の生徒たちが謝りにいくと、先生は「枯葉にだっていのちがある」とひと言呟き、信じられないことにその目には本当に涙が浮かんでいた。実は、その先生がシュタイナー教育(*)の心酔者だったと知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。
 先日、6歳になる長女が家の近くの無惨にも太い枝を切られた木を見て、可愛らしくもひと言呟いた。「ナーソンサーン。トンマイ・コー・ミー・チウィット・ナ(可哀想だわ。木にもいのちがあるのに)」と。誰が教えたわけでもないのに、よくぞ言ってくれた。この娘は日本人のDNAをしっかり受け継いでいる、と無性に嬉しくなった。恩師の教育の成果が国を越えてようやくここに実を結んだのかもしれない。
 それに引き換え、コン・ムアン(北タイ人)100%の妻はせっかく丹精こめて世話した植木の枝でも、遠慮会釈もなくボキボキと折る。しかも、決まって私のいないときを見計らってやるから、余計にタチが悪い。「なんで黙ってやるんだ。これは珍しい木なんだぞ!」と怒鳴りつけたいのは山々だが、ここはぐっと堪えて黙って家を出る。
 気分転換に出かけた先は、ありとあらゆる植木や花を売っているカムティアン市場である。ここにいると、植物の精気が優しく作用するのか、自然に心がなごむ。いろいろな植木を見ているだけで退屈しない。底の見え透いた花博(結局、一度も行かなかった)なんかより、何があるかわからないこの市場のほうがずっと楽しい。ぐるぐる回っているうちに、すぐ2、3時間はたってしまう。
見ているだけにしておけばいいものを、知らない木を見つけると、つい「ハー・ヤーク・マイ?(探すのが難しい?=珍しい?)」と訊かずにはいられない。あちらも売りたいものだから当然のように「ハー・ヤーク」と返してくる。この殺し文句を聞いてしまったら、植物愛好家としては万事休す。少しぐらい値段が高くても、無駄な抵抗は諦めて素直に買い求めるしかない。
 家に戻って、さてどこに植えようかと猫の額ほどの狭い庭を見回して途方に暮れる。生長のスピードを考慮すれば、これ以上たくさんの木を植えたら、将来はジャングルのなかで暮すことになる。はたと困っていると、それに追い討ちをかけるように、「また余計なものを買ってきて、いったいどうするつもりなの!」と妻に叱られる。だからといって、せっかく買ってきた貴重な木を粗末に扱うこともできない。こんな風にして、まだ行き場のない植木鉢が我が家には30個以上も置いてある。
 そんな家族同然(と思っているのは私だけだろうが)の植木のなかで、いちばん高価な木が雨季入り前に枯れてしまった。大切な木だからと思って、水と肥料をやりすぎたのがどうも裏目に出たらしい。子育てと同じで、愛情もほどほどにということか。その植木の値段は、「言わぬが花」としておこう。妻が知ったら、それこそ庭の木を全部バッサリやられかねない。

※人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーの人間観に基づく独自の教育方法。


(99号掲載)

気まぐれ一発!コラム の記事タイトル一覧へ

 

気まぐれ一発!コラム | Top