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まな板の上の恋

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2008.03.20 Thursday

 

Kimagure-112
 3年ほど前のことだったか、昨年、急逝されたパリ在住の女性ジャーナリストRさんが共通の友人から私の電話番号を聞きつけて、いきなり電話をかけてきたことがあった。ずっと長い間、音信普通状態の後での突然の「再会」だったので、こちらもどぎまぎして何を話したのかよく覚えていないのだが、「あのときいただいたまな板、まだ大切に使っていますよ」という言葉だけは妙に記憶に残っている。
 あのときというのは、Rさんが心機一転、仕事の場を東京からパリに移したときのことで、それは私がタイに来るよりも前のことだから、もう20年近い昔の話になる。当時、マイナーというかマージナルな雑誌でRさんの担当編集者だった私は、彼女のリクエストに応えてパリ行きの餞別として檜のまな板をプレゼントした。実のところ、そんなことはすっかり忘れていたのだが、思いがけないこのときの電話の言葉にちょっぴりジーンときてしまった。お互いの関係が途切れてしまったようでいて、長い時間と場所を隔てながらも、まな板を通じてRさんと私の絆はともかくもつながっていた……そのことを知ったとき、形而上学的超時空恋愛とでも言うべき、何とも不思議な気分に浸ることになった。
 個人的な感傷はさておき、あのとき、なぜRさんがまな板なんかを欲しがったのか? タイという外国に暮らすようになってから、初めてその理由が納得できた。こちらのスーパーなどでも、見かけだけは日本と同じような長方形のまな板を売ってはいるが、実際に使ってみると包丁の刃があたるときの感触がまったく違う。木材の種類のせいだろうが、檜みたいに優しくしっくりと刃を受け止めてくれる感じがなく、逆に刃を拒絶するような硬質なリアクションに違和感を覚える。とくにキュウリやキャベツの千切りなどをしてみると、その差は歴然としている。包丁がまな板の上で跳ねてしまって、微妙なコントロールがおぼつかない。
 おまけに、コツコツとまな板を叩くたびに、ステンレス包丁の刃でもどんどん鈍くなっていくのが実感として判るから、精神衛生上まことによろしくない。鈍くなれば砥石で研げばいいだけのことだが、その砥石の適当なものがタイではなかなか手に入らない。以前、そんな不満を某日本料理店で漏らしたところ、ご主人がランパーン産の砥石を調達してくれてずっと愛用している。それでもやっぱり日本のものとまったく同じというわけにはいかない。
 プラスティックのまな板なら、包丁の刃の劣化もそれほどではないはずだが、これはもう見た目だけで無粋でいただけない。かくなるフラストレーションがピークに達していた頃、ちょうど日本からこちらにいらっしゃる知り合いの方から「何かお土産に欲しいものはありませんか?」と訊かれた。まさに「渡りに船」とばかりに、かつてのRさんと同じく檜のまな板をリクエストしたのは言うまでもない。それ以来、我が家のまな板問題はすっきり解決し、キュウリの千切りにも再び快感を覚えるようになった。
 遅まきながら弁護すれば、一般的に使われるタイのまな板にもいいところがある。マカーム(タマリンド)の大木を輪切りにした円形のまな板は、その上で骨付きの肉をぶった切ろうが、ラープ(ハーブ入りミンチ肉)作りのために肉を延々と叩き続けようが、ビクともしない。正目の檜のまな板では、こうはいかない。乱暴に扱えば、ひび割れしかねない。タフネスぶりでは、断然、丸型まな板に軍配が上がる。ただ、村人などはこの手のまな板を使用した後、水洗いもせずに包丁で表面をこすっただけで済ましたりする。衛生的観点すると、こればかりはどうしても抵抗がある。
 ラオスのルアンパバーンでメコン沿いの朝市を覗いていたら、おばさんが丸型まな板を売っていた。タイのものとは異なり、面白いことに3本の足が付いている。つまり三脚まな板である。三脚は安定するから理にかなっているのだが、足は2本の釘で取っ付けただけのもので、いささか心もとない。たしかに地べたにまな板を置いて調理するよりは、足付きで高くなっていたほうが便利には違いない。日本人には思いもつかないアイデアだと感心した。
 まな板の形態の違いは、尽きるところ食文化の違いである。おそらく、日本料理ほど、包丁とまな板を大切にする食文化はないだろう。タイ料理では、野菜でも肉でも魚でも、まな板の形状や材質がどうであろうと、とりあえず包丁で切ればいいわけで、調理の要諦はそれ以外のところにある。包丁の刃が多少欠けていようが、切れ味が悪かろうが、神経質に気にすることはない。包丁もまな板も消耗品に過ぎない。ダメになったら、また買い換えればいいだけのことだ。
 先日、そんな確信をさらに強くするような「事件」が我が家で起こった。私が毎日、欠かさず庭先から水遣りをしてようやく幹の太さが腕ぐらいまでに生長した街路樹が知らないうちに妻の手によってバッサリと切られてしまった。しかも、その作業に使われたのが斧でもノコギリでもなく、大きめの中華包丁だと判って絶句した。木も包丁も可哀想なことこの上ない。その恐ろしい光景を想像しただけで、嗚呼、くわばら、くわばら。


(112号掲載)

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