チェンマイ発・ちょっとディープな北タイ日本語情報誌CHAO『ちゃ〜お』は毎月10日、25日に発行。本文へスキップ

だから花博には行かない

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.06.19 Tuesday

 

気まぐれ99号だから花博には行かない 4月に日本を訪れたタイ人の友人が桜並木に感激して帰ってきた。「わが国も見習ってラーチャプルック(花博の象徴にもなったタイの国花)をもっとたくさんまとめて植えればいいのに」とため息混じりの感想を漏らす。たしかに南国の陽光を黄色い花に凝縮したかのようなラーチャプルックは、桜に負けず劣らず美しい。それなのに、ラーチャプルックの名所があるという話は聞いたことがない。あの黄色い小さな花びらが風に吹かれて舞う様は、桜吹雪とはまた違った鮮やかな趣があるが、わざわざ立ち止まって眺める人もいない。
 思うにそれは、桜とラーチャプルックの比較の問題ではなく、花を眺める側の気持ちの違いなのだろう。寒い冬のあとにようやく花を咲かせては散っていく桜の姿に、日本人は「もののあはれ」、言い換えれば「いのち」のはかなさを感じて嘆息する。西行の「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」ではないが、桜の花の向こうに死が覗いている。だからこそ、なおさら美しく感じられるのだ。
 ところが、ここ南国タイでは、そこにもかしこにも生命の息吹が嫌というほど充満していて、たかが花ごときに「いのち」のはかなさを見ていたら、こちらの感受性がもたない。人が死んでも、タイ人がどこかあっけらかんとしているのは仏教的諦観だけでなく、こうした自然風土の豊かさの裏付けがあるからだろう。「死んだって、すぐ生まれるさ」とでもいうように、「いのち」が消えた余韻に浸る暇もなく、新しい「いのち」がどんどん生まれていく。
 ラーチャプルックとほぼ同じ時期に真紅の花を咲かせる火炎樹をほんの10僂曚匹良通擇ら育てたことがある。何も特別なことはしなかったのに、10年もたたないうちに2階の屋根にまで届くような立派な大木になった。冬がないこの地では、水やりさえ欠かさなければ、1年中休まずに木はすくすく伸び続ける。これだけ植物の生長が早いと、そのありがたみが薄れるのか、こちらの人は木の枝をいとも乱暴に切り落とす。樹形も枝ぶりもまったくおかまいなしだから、これではまともな剪定とは言えない。きちんとノコギリで切り落とす前にボキッとへし折るので、切り口はまことに痛ましい限り。お役所の造園予算をクリアするためか、やっときれいな花が咲くようになった並木道の木も根元からバッサリ切られ、また別の種類の木が新しく植えられていることもある。かくも無神経な「植物虐待」を目のあたりにすると、植物愛好家を自認するものとしては何とも悲しい気持ちになる。
 植物に対するこうした過度な同情心は、今にして思えば小学校高学年時代の担任だった先生からの影響がある。忘れもしない数十年前の秋の日、生徒たちが枯葉を集めて校庭の片隅で焚き火をしているのを見て、先生は「そんなことを教えたつもりはない」と嘆き悲しんで職員室に閉じこもってしまった。女の子の生徒たちが謝りにいくと、先生は「枯葉にだっていのちがある」とひと言呟き、信じられないことにその目には本当に涙が浮かんでいた。実は、その先生がシュタイナー教育(*)の心酔者だったと知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。
 先日、6歳になる長女が家の近くの無惨にも太い枝を切られた木を見て、可愛らしくもひと言呟いた。「ナーソンサーン。トンマイ・コー・ミー・チウィット・ナ(可哀想だわ。木にもいのちがあるのに)」と。誰が教えたわけでもないのに、よくぞ言ってくれた。この娘は日本人のDNAをしっかり受け継いでいる、と無性に嬉しくなった。恩師の教育の成果が国を越えてようやくここに実を結んだのかもしれない。
 それに引き換え、コン・ムアン(北タイ人)100%の妻はせっかく丹精こめて世話した植木の枝でも、遠慮会釈もなくボキボキと折る。しかも、決まって私のいないときを見計らってやるから、余計にタチが悪い。「なんで黙ってやるんだ。これは珍しい木なんだぞ!」と怒鳴りつけたいのは山々だが、ここはぐっと堪えて黙って家を出る。
 気分転換に出かけた先は、ありとあらゆる植木や花を売っているカムティアン市場である。ここにいると、植物の精気が優しく作用するのか、自然に心がなごむ。いろいろな植木を見ているだけで退屈しない。底の見え透いた花博(結局、一度も行かなかった)なんかより、何があるかわからないこの市場のほうがずっと楽しい。ぐるぐる回っているうちに、すぐ2、3時間はたってしまう。
見ているだけにしておけばいいものを、知らない木を見つけると、つい「ハー・ヤーク・マイ?(探すのが難しい?=珍しい?)」と訊かずにはいられない。あちらも売りたいものだから当然のように「ハー・ヤーク」と返してくる。この殺し文句を聞いてしまったら、植物愛好家としては万事休す。少しぐらい値段が高くても、無駄な抵抗は諦めて素直に買い求めるしかない。
 家に戻って、さてどこに植えようかと猫の額ほどの狭い庭を見回して途方に暮れる。生長のスピードを考慮すれば、これ以上たくさんの木を植えたら、将来はジャングルのなかで暮すことになる。はたと困っていると、それに追い討ちをかけるように、「また余計なものを買ってきて、いったいどうするつもりなの!」と妻に叱られる。だからといって、せっかく買ってきた貴重な木を粗末に扱うこともできない。こんな風にして、まだ行き場のない植木鉢が我が家には30個以上も置いてある。
 そんな家族同然(と思っているのは私だけだろうが)の植木のなかで、いちばん高価な木が雨季入り前に枯れてしまった。大切な木だからと思って、水と肥料をやりすぎたのがどうも裏目に出たらしい。子育てと同じで、愛情もほどほどにということか。その植木の値段は、「言わぬが花」としておこう。妻が知ったら、それこそ庭の木を全部バッサリやられかねない。

※人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーの人間観に基づく独自の教育方法。


(99号掲載)

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日本兵の居場所

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ96号日本兵の居場所 メーホーンソーンの南70kmほどのところにあるクンユアムは、愛すべき静かな町である。街道沿いに昔風の木造家屋が並び、ビルマ様式の寺院の境内には落ち着いた雰囲気が漂っている。
 今から60年以上も前のこと。この長閑なタイヤイ族(シャン族)の集落にたくさんの日本兵がやってきた。まず1942年(昭和17年)にインパール作戦遂行のための道路を建設する陸軍第15師団が入ってきた。その数、およそ5000〜6000人というから、半端ではない。当時の集落規模からすれば、とんでもない人数である。宿泊場所は寺院だけでは足りず、ほとんどの民家に兵隊さんが寝泊りしていたという。さらに敗戦前にビルマからほうほうの体で撤退してきた傷病兵がクンユアムに辿り着き、この地で何千人(正確な数は不明)もの日本兵が亡くなった。
 その頃の住民、つまりお百姓さんにとっては、日本人なんて宇宙人みたいな存在だったのではあるまいか。日本という国があることぐらいは知っていても、その場所の見当すらつかない。そんな人がほとんどだったはずだ。日本軍将校と現地のお偉方役人との間での協議、決定事項はあったにせよ、詳しい事情などろくに知らされないお百姓さんは、とにかくどんどんやってくる兵隊さんをわけもわからぬまま受け入れていたというのが真相だろう。逆に言えば、兵隊さんにしても、祖国を遠く離れ、命令に従うままに戦い続け、その挙げ句、傷つき病んで気が付いてみたらこんなタイの片田舎まで来ていた・・・・・・おそらく、そんな心境だったに違いない。「戦争の不条理」によって、ともかくもタイのお百姓さんと日本の兵隊さんが出会った。それだけは紛れもない事実である。
 昨年の暮れ、クンユアムに残された日本兵の遺品を収納、保管している『第二次世界大戦博物館』がリニューアルしたと聞き、その状況確認のため泊りがけで現地に出かけた。いつものように、博物館近くのバーン・ファランなるゲスト・ハウスに宿をとることにした。斜面に建てられたバンガローが何棟かあり、ベランダの前は薄暗い森になっている。街の通りからはいくらも離れていないのに、不思議なほど静まりかえっていて、山奥のなかにいるような気にさえなってくる。
 ここの女性経営者チャリニーさんの母親マッターンさん(1927年生まれ)も日本の兵隊さんと交流した経験の持ち主である。当時はクンユアムから10kmほど離れたムアンポーン地区(ここにも大きなタイヤイ族の集落がある)に住んでいて、おばさんと一緒にバナナを担いでクンユアムまで毎日のように通い、日本軍のキャンプで売りさばいたという。ビルマ人の父親を持つマッターンさんはビルマ語ができたので、やはりビルマ語が解る兵隊さんとの通訳として重宝がられたそうだ。おばさんはメーホーンソーンの日本軍駐屯地まで3日間歩いて米を運ぶ仕事も引き受けて、かなりのお金を貯めたが、代金は軍票だったので日本の敗戦で大損したとのことだった。
吐く息が白くなるような寒い朝、コーヒーをすすりながらそんな昔話を聞いていたら娘さんのチャリニーさんもやってきた。ゲストハウスを作ったきっかけを尋ねてみたところ、こんな話をしてくれた。
 今から20年前、彼女がまだ19歳で、倍以上も年が離れたフランス人の男性と結婚した頃のことだった。銀行で人から土地を勧められて購入することにした。地元の人は「日本軍のキャンプがあったところだから、幽霊が出るぞ」と怖がっていたが、まったく気にしなかった。その土地にゲストハウスを建てるつもりだったが、資金が足りず悩んでいたときのことだった。
「夢の中に軍服を着た日本人が現れたの。そばに虎と蛇もいたわ。日本の兵隊さんが『ここに建物を作りなさい』と指図をした、と思ったら目が覚めた。朝、敷地のなかを歩いていたら、夢とまったく同じ場所があって、なぜか蛇の抜け殻が落ちていたの。直観的にそこを深く掘ってみようと・・・。2mも掘ったあたりで本物のサムライ(日本刀)が出てきたってわけなの」
 ご主人が帰国したときに、フランスにそのサムライを持っていったところ、果たして非常に高い値で売れ、その代金を最初の5部屋分の建設資金にあてることができた。さらにゲストハウス建築中にも再び不思議な夢を見る。ヘルメットを被り、刀を差した将校クラスと思われる日本兵と着物姿の女性(たぶんその奥さん)が夢に現れて、こう宣言したそうだ。「これでようやく戦争が終わった。この先はビジネスの時代になる。我々はこの場所に留まって、ずっと見守っていよう」と。しかも、ゲストハウスがオープンした1989年、今度は夢ではなく、生身の兵隊さんがひとりで木の下に座って黙っているのを実際に見たというのだ。
「ほら、あの木の下よ」とチャリニーさんが指差すが、もちろん私には何も見えない。俄かには信じがたいが、その話を裏付けるような証言もある。博物館設立者で元クンユアム警察署長のチューチャイ・チョムタワットさんによれば、日本軍の病院があったワット・ムエイトー(境内には、当地で亡くなった日本兵のための慰霊碑がある)でも地元の学生が軍服姿の兵隊さんを見かけた報告があるとか。それも複数の目撃者がいたそうだから、信憑性は高い!?
 まだ話は続く。8年前のこと。ゲストハウスの経営が行き詰って、困り果てたことがあった。母娘で相談しても、妙案が浮かばない。庭のテーブルで話しているとき、ガサガサッと音がして巨大な黒い蛇が跳ねるように草陰から飛び出してきた。夢で見たのと同じ蛇だった。噛み付かれるかと思ったら、そのまま去っていった。これは何かいいことが起こる兆しだろうと、当時の母親の年齢72歳にひっかけて末尾番号72の宝くじを大量購入してみたら、これが大当たり。どうにか経営危機を脱出して今日に至ったということだ。なんともタイ人らしいエピソードではないか。
 母娘が森のなかに花や線香のお供え物を置くようになってから、日本兵は夢にも現にも出てこなくなった。たぶん兵隊さんは、自分の居場所をやっと見つけたのだろう。話の続篇がないことを祈りたい。

※参考:チューチャイ・チョムタワット著『第二次大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出』

(96号掲載)

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先回りするベトナム人

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ92号 先回りするベトナム人 つい我々は軽率にも「○○人は○○だ」と口にしがちだが、ある国の多様な人たちを十把一絡げに「○○だ」と決め付けるのはよくない。そんな自戒の念を込めて、以前このコラムでも「タイ人は・・・」という一文を書いたことがあった。かといって、「人種や国籍なんか関係ない。世の中には良い人と悪い人がいるだけだ」などときっぱり割り切って考えることもできない。単純化して決め付けるのはまずいが、それでもやはり国民性というものは歴然としてある。
 そんなことを改めて思ったのは、昨年の暮れ、久しぶりにベトナムに行ってきたからだ。十数年前に初めてホーチミンを訪れたときにまず感じたのは、「この国の人たちは、実にしたたかで計算高い」ということだった。ほんの数日間の短期旅行だったから、もちろん表面的なところしか見ていないはずだが、人でも国でも第一印象はまず間違っていないことが多い。極端なことを言えば、空港に降り立ったとき、国境を越えたとき、その国の雰囲気が瞬時にして直観的に伝わってくる。
 十数年ぶりのベトナムの印象も、前回とほとんど変わることはなかった。その国民性を表す言葉としては、「したたか、計算高い、手強い、用意周到、策を弄する」といった形容が次々と浮かんでくる。インド人のようなトリッキーな策略(と決め付けるのはよくないけれど)とは違うものの、詰め将棋の先手、先手まで読まれているようで、一向に気を抜くことができない。こちらとしても、その手にのってなるものかと、さらにその先を読まざるを得なくなるから、うかうかと旅行気分に浸っているわけにもいかない。
 たとえば、のんびりリラックスしようとダナン近くの美しい白砂のランコー・ビーチに立ち寄ったときのこと。釣竿をもった漁師風のお兄ちゃんが潮風に吹かれて立っている。これは絵になる。写真を撮ろうとして近づいたら、向こうも待っていましたとばかりニヤッと振り向いて、こちらにすたすた歩いてくる。漁師なのに、小脇になぜかアルバムみたいなものを抱えている。そのアルバムを広げて、たどたどしい英語で「俺は世界中の紙幣を集めているんだ。お前は何か珍しい紙幣を持っているかい?」と話しかけてきた。なるほど、向こうがその手なら、こちらもこの手があると、使い道のないミャンマー紙幣1000チャット札を差し出す。すると兄ちゃんは私の財布を覗き込み、「まだ持っていないのはコレ」と1000バーツ札を指さす。もちろん、そんな誘いに易々とのるわけにはいかないが、執拗につきまとってうるさいので、仕方なく20バーツ札をやる。
 それにしてもなんでこんなところまで来て、余計な駆け引きをしなければいけないのか。「何も考えずに、ただぼけーっとしたいだけなのに。もうほっといてくれ」と言いたくなる。去りゆく兄ちゃんの釣竿の先をみると、辛うじて糸と錘はついているが、肝腎の針がない! 冷静に考えてみれば、岩場ならともかく、砂浜で釣り糸を垂れる風流な漁師がいるわけがない。
 あるいは、古い街並みが残るホイアン滞在中にホテルの隣の店で自転車を借りようとしたときのこと。さて、どこに行こうかとガイドブックを広げて、友人のSさんが「日本人・・・」と言ったただけで、それを脇で聞いていたその店のまだ小学生高学年ぐらいの息子がすかさず「の墓」と続ける。ホイアンにはかつて日本人町があり、この地で亡くなった「日本人の墓」が観光名所になっているのだ。それにしても、このタイミングのよさは何だろう。あっけに取られていると、息子は自分を指さして、「お金をくれたら、僕が案内してあげる」と売り込む。日本のお母さんなら「そんなはしたないこと言うんじゃないよ」と叱りつけるところを、ベトナムのお母さんは「うちの息子もたいしたもんね。将来が楽しみだわ」と満足そうな表情をしている。
 案内を断って、道に迷いながらも独力でなんとか「日本人の墓」に辿り着く。もう夕暮れも近いというのに、そこには先回りして待ち伏せでもしていたかのように墓の案内人がいた。墓守を無視するわけにもいかないので、ここは観念してこの男の指示に従う。線香と紙幣を墓の前に置き、祈りを捧げる。遥か昔に異国で亡くなった故人を思うと、同じ外国で暮す日本人としても感無量になる。神妙な気持ちでその場を立ち去ろうとすると、案内人の男はしゃあしゃあとチップを要求する。どうせお墓に供えた紙幣も彼のものになると解ってはいても、こんな場面だと払うしかない。
 なんか一杯食わされたような釈然としない気分で、蒸し暑いなか自転車をこいで汗だくになって帰った。自転車を返そうと先程の店に戻るや否や、またもや待ち構えていたかのように、お母さんが冷えたビールを手にして駆け寄ってきた。おそらく、我々が外出していた間ずっとこの状況を想定して頭の中でシミュレーションを重ねてきたに違いない。そうでなければ、これほどまでに絶妙なタイミングで飛び出せるはずがない。うっかり「どうもありがとう」とビールを受け取りそうになったが、幸か不幸かSさんの腹の具合がおかしかったので、遠慮することにした。シナリオ通りにことが運ばなかったためか、お母さんは怪訝そうな顔をしていた。
 一事が万事こんな調子で、ベトナムの旅は心休まる暇がない。息抜きができないので、知らず知らずのうちに気疲れしている。短期旅行でもこうだから、ベトナムでロングステイするには、相当の根性と覚悟が必要だ。よほどタフでなければ、生きていけない。柔な神経の持ち主が暮すとしたら、どこか抜けているようなタイがちょうどいいのかもしれない。

(92号掲載)

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チャイントン再訪

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ90号 チャイントン再訪 地図で見ると、タイ国境の街メーサイからミャンマー=シャン州の街チャイントンまではいくらも離れていない。距離にして約170kmだから、チェンマイからチェンラーイに行くより近い。初めてチャイントンを訪れた1993年以降、ビザの切り替えなどでメーサイには30回以上も行っているのに、そのすぐ鼻の先のチャイントンまで足を延ばそうとしなかったのはどうしてだろう。
 確かに、数年前までミャンマーのタイ側国境地帯では麻薬の利権などをめぐって断続的にシャン族とワ族(あるいはミャンマー政府軍)との衝突が繰り返されてはいたが、タイミングさえ間違えなければ、それほど危険なエリアでない。国境は開いている期間のほうが長かったから、その気になれば、行く機会はいくらでもあったはずだ。
 もうひとつその気にならなかったのは、最初の訪問時に悪路で苦戦したトラウマのせいもあるが、滞在中に現地の人と個人的に知り合うことがほとんどなかったからに違いない。これまでの自分の旅の行動を振り返ってみると、仕事絡みは別として、ある土地を再び訪れようとする場合には「人」が介在することが多い。土地を再訪するのではなく、人に再会するために、そこに向かうのである。
 そんなわけで、チャイントンについては記憶の片隅に「魅力的な街」という印象がありながら、旅の目的地に選ばれることもなく、そのまま長い時が過ぎてしまった。昨年、やっと13年ぶりに再訪することになったのも、自らの意志ではなかった。このところ、よく一緒に旅行をしているNY在住のSさんが本誌70号掲載の岡本麻里さんによるチャイントン探訪記を読んで関心を持ったのがきっかけだった。
 チャイントン再訪のその日、メーサイの向こう側の街タチレクを昼過ぎに出発するバスに乗り込むはずが、チェンマイからの時間計算を誤って間に合わず、結局、乗り合いタクシーを利用することになった。さすがにタイでも見かけないような年代物の日本車で、エアコンは窓全開の自然環境タイプである。スタート時はSさんと私の2人だったが、途中の市場でシャン族のおばちゃんをピックアップしていく。料金は不平等な割り勘(?)だが、文句は言うまい。
 かつてはタチレクを少し過ぎれば土埃のでこぼこ道だったのに、現在では崖崩れの危険箇所以外は快適な舗装道路が続いている。途中、いくつかのチェックポイントがあり、運転手は乗客の身元情報を報告する。点と線の支配に過ぎなかった一昔前に比べれば、中央政府の統治管理レベルが数段アップしていることは明らかだった。前回の苦難の旅路(前号ご参照のこと)が嘘のように、たったの3時間であっさりチャイントンに到着した。
 さて、夕暮れ時に懐かしいチャイントンの街をSさんに案内しようとして、はたと困った。あれほどあちこちウロウロしたところだから何とかなるだろうと思って、いざ歩き出してみたものの、右も左もまったく判らない。どうしたことか、ほとんど記憶が飛んでしまっている。辛うじて覚えているのは、雲南風中華料理の食事がやけに油っぽかったこと、市場で食べたワンタンメンがなかなか旨かったこと、それと濃い目の紅茶のプーンとした香りぐらいで、要するに断片的な食い物のことばかりなのだ。逆に言えば、13年経っても味覚や嗅覚と結びついた記憶はちゃんと残っているところが面白く、我が脳細胞の浅ましさを改めて知る思いがした。
 街のすぐ近くにあるはずのノーントゥン湖でさえ方角が判らず、道に迷いながら遠回りして岸辺に辿り着く。ところが、お目当ての水上レストランが見当たらない。レストラン併設の「ゴーゴー・ステージ」で踊っていたミニスカートの美少女たちが前回の滞在でただひとつ鮮烈な記憶に残る「現地の人」だったのに…。その後の中央政府当局の厳格な指導によるものか、あのいかがわしくも活気あふれるステージは蜃気楼のように跡形もなく消えていて、時の流れの虚しさを思わないわけにはいかなかった。
 翌朝早く、中央市場へと出かける。この規模の街にしてはずいぶん大きな市場で、地元の人や周囲の村から下りて来た山岳民族などでごった返している。近頃のタイではもはや薄れつつある市場本来のカオスの醍醐味が体感できるところだ。食い物関係の場所だから、頼りない私の記憶もここだけは別である。昔と変わらないトタン屋根の下の路地を歩けば、当時の情景がオーバーラップして甦る。ワンタンメンを食べただけでは足りず、さらに何軒かの屋台をはしごする。岡本麻里さん絶賛のヒヨコ豆ペースト付きのナンをつまみながら店先を見ると、この地味な環境には不似合いな真っ赤なジャケットを羽織った女性が目に入った。フォトジェニックな表情に惹かれるままに、図々しく写真を撮らせていただく。
 そこから数ブロック先の金物屋でSさんが南京錠を探しているとき、ふと横を見ると先程の女性がいるではないか。この店に釘を買いにきたらしい。これは奇遇と、もうワンショット撮影のお願いをする。「魚心あれば水心」というわけか、彼女は「うちに遊びに来ない?」と誘う。まさか逆ナンでもあるまいが、もちろん二つ返事でOKして、彼女のあとをついていくことにした。
 市場裏手の階段を上り、高台にあるお寺の境内を抜けて、街を見渡す丘に沿うように10分ばかり歩いたところにその家はあった。赤土の日干しレンガを積み重ねただけの原始的な造りで、貧しい暮らしをしていることは一目瞭然だった。この辺は遠隔地から移り住んできたアカ族の集落だという。それで市場での気さくな「誘惑」の謎が解けた。山岳民族ならではの優しいホスピタリティの表れだったのだ。彼女とお姉さんと姪の3人は、文字通り肩を寄せ合って生活している。日本人なら、こんな粗末な自宅に人を招待することはない。でも、我々は確かにこうして招かれた。
 やがて、土器の甕から汲んだ水に砂糖を溶いてレモンを絞ったものがコップに入れて差し出された。これを飲むべきか否か。この家の衛生状態からすれば、遠慮するのが賢明なのは解っているが、無下に断っては男がすたる。ときには賢さを捨てる覚悟も必要だ。精一杯のもてなしに応えて、ぐいっと一気にと言いたいところだが、ちびちびとゆっくりその特製レモン・ジュースを飲み干した。タナカー(木を削った粉の日焼け止め)を塗った頬に悪戯っぽい笑みを浮かべて、「また遊びに来てね」と彼女は言った。
 再びチャイントンを訪ねる日が今から待ち遠しい。

(90号掲載)

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遥かなるチャイントン

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ89号 遥かなるチャイントン 旅をしていていつも思うのは、「この地を再び訪れることはあるのだろうか?」ということだ。かつて東南アジアを10ヵ月間あちこち旅して回ったことがあるが、その後、再訪した場所は数えるほどしかない。「ぜひもう一度、あそこに行ってみたい」と思ってはいても、何らかのきっかけと縁がなければ、なかなかその願いは実現しない。個人的経験から言うと、やはり「人とのつながり」がキーポイントであることが多い。
 ミャンマー=シャン州の街チャイントンを初めて訪れたのは、長らく「秘境」であったこの土地が外国人旅行者に開放された1993年のことだった。現地情報が少なく、政治情勢も不安定なところへ、まだタイ語もろくに話せない私がひとりで行くのはあまりに無謀である。当時、仕事上の子分的存在だったリス族の青年ソンブーン君に声をかけて、「冒険旅行」に同行してもらうことになった。
 タチレクからチャイントンまでの道は未舗装の悪路だと聞いていたが、メーホーンソーンの山村育ちのソンブーン君は「俺は山道のプロだから、任せておけ」と自信たっぷりに胸を張る。頼もしい発言に勇気づけられて、レンタカー(4輪駆動ジープのカリビアン)をミャンマー領内に持ち込むことにした。現在は車の所有者確認などチェックが厳しいらしいが、当時の手続きはいたって簡単で、個人の入国手数料に加えて車の持ち込み料を支払うだけで済んだ。
 国境を越えて10分も車を走らせると、タイ側とはまったくの別世界が出現する。いや、別世界と言うのは妥当な表現ではない。もともと歴史的、文化的にはシャン州も北タイもほとんど似たような世界だったのに、第二次世界大戦後の政治経済的な社会事情の変化によって、両者のギャップがどんどん広がっていっただけのことだ。解りやすく言えば、実感として40〜50年前のタイがそこにあった。車に揺られて風景を眺めているだけで、タイムマシーンに乗って時の流れを逆行するような幻惑的な興奮を覚えたものだ(今はそのギャップがだいぶ縮まってきたかもしれない)。
 道路事情も大昔レベルで、噂通りの悪路が延々と続く。せいぜい170km程度の道程を地元のドライバーは7時間もかけて慎重に運転するところを、血気盛んで自信過剰気味のソンブーン君は終始一貫してパリ=ダカール・ラリー並みのアクロバティックな運転に挑む。「この調子なら5時間もあれば充分さ」と豪語したのも束の間、ゴツン!と鈍い音がした。大きな石を避けきれずに、もろに車体をこすってしまったのだ。路上にガソリンがポタポタと滴り落ちている。幸いにも町の近くだったので、修理屋らしき職人がすぐに見つかった。何とか応急処置をして走行可能な状態になったが、このアクシデントで3時間もロスしてしまった。
 再出発して、しばらくすると日が沈み始め、辺りがだんだん暗くなってきた。しかも、川沿いの崖っぷちのガタガタ道を走っていくとあっては、今にも転落しそうで気が気ではない。さらに、前方からは銃を担いだ2人組の兵士が近づいてくる。ミャンマー政府軍か、反政府系のシャン州軍か? どちらであっても怖い。こんな寂しいところでは、いつ山賊に変身しないとも限らない。普段は強心臓のソンブーン君も恐怖心を隠せない。何事もなく兵士とすれ違った後で、お互いに「助かった…」と溜め息をつく。
 これ以上、暗くなってからのドライブはどう考えても危険なので、その日のうちにチャイントンまで行くのは諦めて、次の町に泊まるしかなかった。といっても、小さな田舎町だから、ホテルはおろか安宿だってありゃしない。途方に暮れて、レストランの店主に相談すると、「うちの2階に泊まれば」と言うので、ありがたく善意に甘えることにした。そのときの家の中の様子はほとんど記憶にないが、隣の部屋に美人四姉妹の娘さんたちがいてドキドキしたことだけはなぜか覚えている。
 翌日は何のトラブルもなく悪路をクリアして、昼頃にようやくチャイントンに辿り着いた。5時間のはずが2日がかりの旅になってしまった。それだけに、ずいぶん遠くまでやってきたという気がした。実際にその頃のチャイントンは、ほとんど知る人もいない「遥かなる都」だった。
 街の中心にあるノーントゥン池には、今は語り草になっているレストラン併設の「ゴーゴー・ステージ」があって、毎晩、ミニスカートをはいた美少女が踊っていた。こちらが誘えば、一緒に踊ってくれるシステムになっていたようだが、さすがに恥ずかしいので黙って眺めるだけだった。深い闇を湛えた静かな街の佇まいと、猥雑でやかましいステージの奇妙な取り合わせには不思議な異化効果があった。
 ぜひ次回はこの魅力的な街にゆっくり滞在してみたいと思ったが、意に反してしばらく再訪の機会が訪れることはなかった。それが実現したのは、ようやく今年になってのことだった。

(次号:チャイントン再訪に続く)

(89号掲載)

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究極のダイエット

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ88号 究極のダイエット 初っ端から尾篭な話で恐縮だが、またもやひどい下痢をしてしまった。またもやというのは、6月のラオス旅行に続いて今度はミャンマー=シャン州の旅でも腹を壊してしまったからだ。東南アジアの地で日本からやってきた旅行者が不衛生な食べ物にあたるのは旅の通過儀礼のようなもので珍しくも何ともないが、長らくタイで暮している私がこうも簡単に下痢になってしまっては格好が悪い。しかも、今回は旅の道中でまったく同じものを食べていた、超近代都市ニューヨーク在住のSさんがピンピンしているというのに…。いつからこんなにデリケートなお腹になってしまったのか。それとも急速な経済発展のおかげでタイの衛生状態が飛躍的に改善され、それに反比例するようにこちらの免疫力、抵抗力が落ちてしまったとでもいうのか。
 これほどまでに我がお腹が弱体化してしまったそもそものきっかけを探っていくと、15年前の食中毒体験に辿り着く。当時、メーホーンソンのリス族の村で野良仕事に励んでいた私は、ある日突然、高熱とひどい下痢に見舞われた。炎天下の暑さに負けて民家の軒下のボウフラが湧いていたような甕の水を飲んだためか、村でわけのわからぬキノコ料理を食ったせいか、正確な原因は不明だったが、未だかつて経験したこともないほどの苦しみを味わった。メーホーンソンの病院に3日間入院しても快癒しなかったが、帰国日が迫っていたので、中途半端な状態で病院を抜け出し、余計なものを出してはいけないと腰を浮かせるような姿勢で夜行バスに揺られてバンコクまで行き、やっとのことで帰国した。日本に戻ってからも、しばらくは調子がおかしく、1ヵ月もたってから39度以上の高熱がぶり返したりした。公立の総合病院で診てもらっても、ただ食中毒だろうというだけで、菌の特定すらできなかった。
 その結果、ほんの短期間に10kg以上も体重が減ってしまった。ただ単に下痢で激痩せしただけなのに、叔母さんからは「よっぽど充実した旅をしたのね。ずいぶん立派な顔になったわ」と過分に誉められたことを覚えている。確かにそのころに撮った写真を見ると、我ながら惚れ惚れするほど精悍な顔つきをしている。
 病院の消化器科の待合室に座っていると、隣の患者さん同士が話している言葉が耳に入ってきた。「腸は癖になるから、やっかいよ」「一度こじらすと、なかなか治らないんだって」などなど。その言葉を実証するように、下痢が収まった後も左の下腹部が常に落ち着かない感じで、それが癖になって現在まで続いている。
 その癖をほぼ決定的なものにしたのが、2年前の雲南省シーサンパンナの旅から帰った後の下痢だった。そのときの「犯人」は、タイルー族の人々で賑わうジンホン郊外のカンランバの市場でお土産に買った納豆の唐辛子漬けだった。市場ではプラスティックの樽に入れて売っていたので、冷蔵庫で保存するまでもなかろうとビニール袋に入れたままにしておいたものを食べたのがまずかった。空気に触れない密閉状態によって、雑菌(大腸菌の一種?)が勢いよく繁殖したらしい。大さじ一杯食べている妻は何ともないのに、舌に異変を感じて数粒つまんだだけで止めた私が2ヶ月も体調を崩したのは不公平そのもので納得できない。だが、改めて考えると、異変を感じたのに、なぜ吐き出さずにそのまま飲み込んでしまったのか。今さら後悔しても遅いが、この辺に本当の敗因がありそうだ。25年前の学生時代にも、焼き鳥屋でひと口食べて変だと思ったレバ刺しを飲み込み、見事にサルモネラ菌に感染して寝込んだことがあったから、改めるべきは我が食い意地のほうだろう。
 さらに駄目押しが、ラオスでの食中毒。このときは、友人の勧めでビエンチャンのクリニックに行き、点滴を受けるオマケまでついた。医者は私の顔を見るなり、診察するまでもなく、「ハンバーガーみたいなものを食べなかったか?」と尋ねる。そう言われてみると、ルアンパバーンのメコン川沿いの屋台で、見るからに旨そうな網焼きの唐辛子入りハンバーグをフランスパンに挟んでムシャムシャ食べたことを思い出した。あれが生焼けだったのかもしれない。霊能者並みの医者の直感には恐れ入ったが、暑い時期のラオスでは雑菌が繁殖しやすく火が通りにくいハンバーガーは要注意なのに違いない。
 そして、今回のミャンマー旅行中の下痢は、困ったことに原因がハッキリしない。確かに、チャイントンのレストランで覗いた台所の衛生レベルはお世辞にも高いとは言えないし、市場の屋台も小汚い。だからこそ、すべてきちんと火が通ったものを食べるように気を付けていたつもりだったのに、またもや腹を壊してしまうとは情けない。
 たかが下痢とはいえ、身体への過信は禁物だ。身体のコンディションによっては、食中毒で死に至ることも珍しくない。腸のダメージは、文字通りボディブローのように利いてくる。食欲も精気もなくなる。その結果、必然的に体重も減ってくる。
 ここしばらく続けてきたキャベツ・ダイエットとこの究極のダイエットによる相乗効果はてき面である。それでも、過去のたゆまぬ蓄積のおかげで、腹周りの脂肪のだぶつきは一向に変わらない。せめて精悍な顔つきだけでも甦って欲しいと密かに期待しているのだが…。

(88号掲載)

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一進一退のダイエット

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ84号 一進一退のダイエット 先日、久しぶりにズボンを買おうかと紳士服売り場でウロウロしていたら、いきなり店員から先制攻撃を受けた。「お客様の場合は、37のサイズのほうがよろしいかと…」私が36インチのズボンを手にとっているときに、わざわざそんなことを言うのだ。こちらもついムキになって、「いや36で大丈夫です」と言い返してみたものの、ちらりと不安が過ぎる。いざ試着室ではいてみると、やっぱりちょっときつめではないか。カーテン越しの「お客様、いかがでしょうか?」との声に条件反射的に息を止めて、腹をへこます。無理やり前のホックをとめ、「ポーディ(ちょうどいい)」と涼しげな顔で答えて、当然のようにそのズボンを購入した。
 そんな伏線があったので、後日、あるサイトで、「ウェスト85cm以上の人はメタボリック・シンドロームにご用心!」との記事を見つけたときには、少なからぬ衝撃を受けた。つまり、34インチでもう86cm以上だから、腹をへこましても36インチの私などは完全に危険領域に入っている。
 このわけの解らない「メタボリック・シンドローム」という用語もくせものだ。メタボリック(新陳代謝の…)はいいとしても、シンドロームはいけない。理屈ではなく、言葉の響きの問題だ。医者に「ちょっと内臓脂肪が多いですね」と言われてもどうってことないが、「あなたはメタボリック・シンドロームですよ」とでも宣告されたら、誰もが深刻に悩んでしまう。実際、今の薬局でダイエット食品や健康食品を売るときの殺し文句は「メタボリック・シンドローム」で、その効果の程はてき面らしい。
 かくして、私も深刻に悩んだ結果、柄にもなくダイエットに励むことになった。これまでダイエットなんて馬鹿にしていたのに、シンドロームから脱出するためには致し方ない。確かに、このところ体が重く感じられて、やけに疲れやすい。このままだと、生活習慣病にまっしぐらという危機感はあった。ズボンのサイズも10年前は31だったのが、5年前は33になり、そして今は無理して36だから、その数字だけでも危機的な状況を如実に物語っている。年齢的な理由もさることながら、こちらに住むようになってからの食生活、食習慣が主な要因だろう。
 例えば、チェンマイの街角にはやたらと旨いものを売っている屋台が多い。食い意地が張っている者にとって、これを無視して通り過ぎることは至難の技だ。飲み物をオーダーすれば、これがまた思いっきり甘い。慣れとは恐ろしいもので、今はその甘さも平気で受け止めるようになった。家では、朝から肉料理、炒め物、揚げ物がどんどん登場する。しかも、その量が必要以上に多い。「食べ物を残してはいけない」と言われて育った世代としては、出されたオカズを平らげるように努力するから、つられてご飯もたらふく食べることになる。腹八分が理想なのは解っていても、腹十二分ぐらいは食べてしまう。日本では焼酎系統を飲んでいたのに、こちらではもっぱらビールである。予算上、ツマミは刺身にしたいのをぐっと我慢して、油っぽい肉料理で済ます。おまけにどこに行くにも車だから、1日に歩く距離はたかが知れたもので、運動不足にならざるを得ない。これで太らない方がおかしい。
 それでは、これだけの悪条件に対抗するダイエット方法をどうやってみつけたらいいのか? 巷にはありとあらゆるダイエット方法が溢れているが、そのどれもが正しいようで、どれもがいかがわしいような。慎重に選んだところで、その効果は保障できない。というわけで、たまたま目にした「キャベツ・ダイエット」に挑戦することにした。アントニオ猪木が糖尿病をこれで克服した事実の説得力もあったが、本当の理由はただ簡単そうだから。要は、食前にキャベツの6分の1ぐらいをよく噛んで食べればいいだけのこと。これなら、意志の弱い私でもなんとか続けられそうだ。たかがダイエットに悲壮な覚悟で挑むのは性分に合わない。
 ほうれん草ダイエットとかニンジン・ダイエットだったら、気持ち悪くなりそうだし、いくら栄養があってもアクの強い緑黄野菜の食べ過ぎは身体にもよくないはずだ。その点、キャベツだったら身体に優しく作用しそうだし、飽きもこない気がした(もっとも気がしただけで、実行したら飽き飽きしたのだが)。ただ、農薬だけは危ないので、安い市場のものは避けて、なるべくドイ・カム(ロイヤル・プロジェクト)のキャベツを買うようにした。その分野に詳しい人によれば、オーガニックと銘打ってはいても、まったくの無農薬ではなく出荷前の農薬制限らしいが、それでも少しは安全なはずだ。ダイエットに成功したとしても、農薬で癌にでもなったら、元も子もない。
 あとは身体を動かすことが重要だが、かといって運動するのは面倒なので、たまたま指導書が手元にあった西野流呼吸法を採り入れることにした。これもただ「西野バレエ団出身の由美かおるがあの年にしては異様に若い」という単純な理由からで、確乎とした根拠はない。
 このキャベツ・ダイエットと西野流呼吸法の併用がそろそろ効果を見せ始めようかという頃のことだった。街を歩いていたら、辺り一帯にこの上なく香ばしい匂いが漂っている。その匂いに引き寄せられるように進んでいくと、サイクローク(タイ風ソーセージ)を焼いている屋台があった。それもただのサイクロークではなく、大好物のサイクローク・イサーンなのだ。チェンマイで売っているサイクローク・イサーンと称したものはいい加減なものが多いが、これは見たところ本格派である。豚の脂が炭火に落ちて、ジュージューといかにも旨そうな音を立てている。初めはただ見るだけで我慢するはずだった。だが、ふとそのとき「無駄な抵抗はやめろ」という天の声が聞こえて、遂に誘惑に負けて特大ソーセージを3本も購入してしまった。しばらくこの手の食い物は口にしていなかっただけに、その旨いこと。と同時に、文字通り、我が臓物に豚の脂が滲みこんでいくのがありありと判った。これまでの努力が水の泡となったカタルシスが肉汁の旨みに溶け込んでいく。ビニール袋にたくさん入れてくれた付け合せのキャベツがせめてもの慰めであった。

(84号掲載)

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刺青の代償

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ79号 刺青の代償 数年前から、チェンマイの街なかでワンポイントの刺青を腕や背中に入れている若い女性の姿がちらほら目に付くようになった。ステッカーで貼り付けただけの刺青もどきも混ざっていたが、最近はホンモノ率が高くなっているようだ。
 刺青を見ると、どうしても一般的日本人はヤクザや前科者のイメージを思い浮かべて、後ずさりしがちである。「親から授かった身体に傷をつけることはいけない」という、おそらくは儒教的な考えから刺青に抵抗を覚える人が多い。それにひきかえ、ここ北タイの村では、刺青はもう少し身近な存在である。魔除けや護身のために動物や呪文の刺青をしている男性も珍しくない。その神通力が増すと考えるのか、僧侶に刺青を施してもらうこともある。妻の父親も胸に刺青があるが、これは十数年前に木材の無許可運搬で捕まったとき、刑務所で入れたものだという。いずれにせよ、タイ人の刺青には一生もののお守りとして何らかの呪術的意味合いが込められている。
 村人たちの刺青は単色(紺)の素朴な絵や文字で描かれ、技術的にも稚拙なものが多い。もともと装飾を目的としているわけではなく、呪術的な効力が重要とされるのでその程度で充分なのだろう。これに比べると、若い女性の刺青はずいぶんカラフルで繊細な模様が主流になっている。深層心理はさておいて、表面的には呪術的要素とは無縁の単なるファッションに過ぎない。日本の一部若者の間で流行しているTATTOOの影響もあるだろう。
 チェンマイ在住3年になる友人Aさんは、どんなに可愛い女の子でも、どこかに刺青をしていると判った途端に醒めてしまうという。とくに昨今の水商売系は刺青率が高くなっているだけに、これはかなりの悲劇を招く。さあ、これからちょっかいかけようと思ったときに、袖の下から刺青がのぞいたりすると、もうレッドカード気分になってしまうわけだ。刺青を忌避する一般的日本人としては、ごく当然の反応かもしれないが、目の前の可愛い女の子よりも自らのアイデンティティーをしっかり尊重するAさんはまことに潔い。タイ暮らしが長い私などは欲望に負けて、「こんな可愛い子がやっているなら、刺青もいいもんだなぁ」と価値判断のベクトルをあっさり逆転させてしまうのだけど。
「刺青はヤバイ」という日本人の感覚(一種のアイデンティティ)も時間的、地理的な枠を広げてみると、実はそれほど確固たるものではないことがわかる。中国の歴史書をひもとけば、古代の日本人には刺青の習俗があったと書かれているし、大陸文化渡来以前の原日本的文化との関連性が指摘されるアイヌや琉球では、近年まで女性にも刺青をする習慣があり、それは重要な文化的意味を持っていたという。結局は刺青に対する好悪の感覚も、その人が依って立つ文化的、社会的バックボーンに大きく左右される。
 チェンマイにたびたびやってくる友人Bさんのバックボーンは少し変わっている。浅草で大工の棟梁をしていた父親の背中の刺青を見て育ったので、刺青自体にさほど抵抗はなく、いつか自分の身体に彫ってみたいと思ってはいたが、なかなか踏み切る勇気もきっかけもなかったという。
 先日、そのきっかけが突如として訪れた。仲良くなり始めた女の子から、「私はあなたのイニシャルとハートマークの刺青を彫るから、あなたも何か彫ったら」と言われた。ちなみに彼女の背中全面には、極彩色の龍の刺青が既に施されている。今さら、この程度の刺青の追加はたいして痛くもなかろうが、イニシャルまで入れるとなると、その意味は深い。「死ぬまであなたと一緒」というメッセージが込められている。ここで怖気づいては男がすたる。かといって、うかつに「僕もずっと君と一緒さ」と安請け合いして相手のイニシャルなんかを彫ってしまったら、それこそ取り返しのつかないことになる。だが、そこは男女関係の機微にかけては百戦錬磨のBさんだけあって、さすがに落としどころが巧みである。「寅年生まれだから、勇猛な虎の刺青にする」という見事な応対で切り抜けた。
 女の子に案内されてガート・スアンケーオのTATTOO SHOPを訪れた。日本の刺青マニア雑誌を渡されて、そこから「勇猛な虎」の見本を探すが、漫画っぽかったり、猫みたいな可愛い目だったりで、なかなかイメージ通りの絵柄が見つからない。ようやく炎を身にまとったような虎の絵に決定。Bさんは「もっと目を鋭く」と注文をつける。
 まず、女の子が胸にイニシャルを入れる。ボールペンで下書きをして、歯医者のドリルのような針が微妙に上下する機械で彫り、真紅の色を入れていく。あっという間に、愛の絆を示す文字が浮かび上がった。刺青の周辺の肌がピンクに染まり、痛々しくも艶っぽい。
 次はBさんの番。一応、シャツの下に隠れるように、肩から上腕部にかけての部分に刺青の位置を指定する。器用にボールペンで絵柄を写し、同様に機械で彫り進んでいく。虎は黒(ただし目の部分だけは黄色)、炎の部分は真っ赤である。影をつけるようなテクニックも駆使している。色をつけては、脱脂綿で血を吸い取っている。見ている方が痛くなってくるが、Bさんは平然とした表情で通している。それほど痛くないのかと思ったら、「そりゃ、痛いですよ」と当たり前の言葉が返ってきた。とくに虎の縞を黒く塗りつぶす部分で針をグチャグチャかき回すようにすると、猛烈な痛みが走るそうだ。1時間半ほどで、いかにも勇猛な虎の刺青が完成した。ワセリンを塗って、その上をラッピンッグするだけで、消毒もしない。心配になるが、店の人はしばらくシャワーの水をかけなければマイペンライだという。
 身体を痛めることと引き換えに、目にも鮮やかな刺青は肌に定着する。それは現代に残された、一種の通過儀礼かもしれない。痛みという秘密を共有したご両人は、既に他の誰にも窺い知れない幸せな関係にある。羨ましいと思いながらも、臆病な私には痛みに耐える勇気もないし、それを分かち合う相手もみつからない。

(79号掲載)

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半信半疑のキノコ

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ78号半信半疑のキノコ 今年は雨季入りがやけに早かった。雨季に入ってからの雨量も異常なほどに多い。こんな天気がずっと続くと、野生キノコ大好き人間の私などは、湿気を帯びた森の腐葉土から頭を出してすくすく育っているキノコのイメージをすぐ想像してしまうのだが、大自然の摂理はそう単純な話ではないらしい。
 例年、野生キノコのトップバッター的存在として雨季入り直後に市場に登場するヘット・トープなのに、今年は期待に反して見かける機会が少なかった。この丸いコロコロした不思議な形状のキノコは、山焼きをした後の灰混じりのパサパサした水はけの良い土壌の中に潜んでいる。度重なる大雨のために菌を含んだその土壌が流されてしまったのか、水分過剰でかえって菌の生育が阻害されたのか、本当の原因はよくわからない。「雨降り続き→湿気が多い→キノコが成長」といった人間の単純な希望的観測をあっさり裏切ってくれるところがいかにも個性派キノコの代表選手らしくてよいが、キノコ・ファンとすればあの独特の歯応えが気軽に楽しめないのはやっぱり悔しい。年中行事化している妻の親戚のヘット・トープ採りもいつになく不調だったとみえて、収穫のお裾分けにあずかることもなかった。
 キノコ・シーズンの出端をくじかれて、今年は野生のキノコのはずれ年だと観念したわけじゃないが、キノコ探しのスタート・ダッシュが遅れてしまった。ようやく、先日、ドライブがてらにチェンダーオ周辺のキノコ売店を覗いてみたところ、どの出店もキノコのてんこ盛り。これは、はずれ年どころか大当たり年ではないか!? 店のおばさんに訊いてみると、「ヘット・トープが少ない年は、普通の笠付きのキノコがたくさん出るし、ヘット・トープがたくさん採れる年は、その逆なんだよ」との答えが返ってきた。つまり、野生のキノコの奥深い世界を、十把一絡げに単純化してはいけないってことなのだ。店先には、今まで見たこともない種類のキノコも並べてあって、久方ぶりにキノコ魂(そんなものがあるのかどうか?)を揺さぶられる思いがした。もうこれからは、「野生のキノコを食いまくってやるぞ」と気合を入れた矢先のことだった。
 親戚でもないのに我が家と親戚のようなお付き合いをしている、メーテンの山村に住むキノコ採り名人婆さんから妻に電話があった。旦那の爺さんがひどい食あたりで緊急入院して絶対安静状態だと訴える。ちなみに、この爺さんは山際の農業用水池でプラー・ニンを獲って小遣い稼ぎをしている「魚獲り名人爺さん」だが、腐った魚ではなく家にあった毒キノコを食って、病院に担ぎ込まれたのだという。「猿も木から落ちる」でキノコ採り名人婆さんが不注意にも毒キノコを持ち帰ってしまったか?と一瞬、疑ったが、後でよく事情を聴いてみると、こういうことだった。
 その日、婆さんが家に帰ってみると、誰が置いていったものか、縁側にキノコが置いてあった。それはヘット・グラドーンという珍しいキノコで、焼くといい香りがして旨く、トムヤムにしてもなかなかいける。このキノコには芯の部分が長い(30cm程度)ヘット・グラドーン・ティーン・タムと短い(15cm程度)ヘット・グラドーン・ティーン・スーンの2種類があり、やっかいなことに前者は珍味だが、後者には毒がある(ティーンとは、カム・ムアン=チェンマイ語で足を意味する)。ところが、置いてあったのはキノコの笠だけで、芯の部分がなかった。これでは、判別のしようがない。
 キノコのプロフェッショナルである婆さんは「あぶないから食っちゃダメだよ。すぐ捨てなさい」と注意したのに、爺さんはもったいないと思ったのか、冷蔵庫にしまってほどなく焼いて食べてしまった。すると20分も経たないうちに、吐き気を催し、2時間あまり何度も嘔吐と下痢を繰り返し、地元の公立病院に送り込まれたときには顔面蒼白だった。身体が火照るように熱く、血圧も急激に降下し、やがて便には血が混じるようになった。その血が赤から黒に変わったらお陀仏という、かなり危険な状態だったが、3日間の入院治療で何とか一命を取り留めた次第である。
 何でも、この爺さんは過去にも酒の肴として食った同じキノコで中毒した経験があり、今回が2度目の毒キノコ騒ぎらしい。それほど旨いキノコなのかと思うと、ちょいと味見でもしたくなるが、いくら大のキノコ好きを自認する私でもその勇気はない。さすがに婆さんも呆れ果て、「ほんとに懲りない男だね。今度、また食いたけりゃ、村の火葬場へ行って食いなさい!」と皮肉を込めて言い放ったそうだ。
 こんな経緯を聞くと、今までのように安心して野生キノコ料理に舌鼓を打つこともできない。動植物の種別を見分けることを同定というが、キノコの同定は非常に難しい。それはある程度わかっていたが、念のためとインターネットなどで調べてみると、恐ろしい毒キノコの話がたくさん出てくる。食べてから何日もたってから中毒症状が出てくるキノコとか、ひとかけら食べただけでイチコロの猛毒キノコとか。酒を飲むと中毒症状が和らぐキノコとか、逆に酒を飲みながらだと中毒がひどくなるキノコとか。こんなことを知ってしまうと、なおさら心配になる。これからは愛すべきキノコをじっと凝視しながら半信半疑で酒を飲まざるを得ない。あー困ったことになった。
 ますます心配になってきたので、婆さんに村人たちが昔からやっている毒キノコ判別法を教えてもらった。採ってきたキノコと米を一緒に茹でてみて、米が赤くなったら毒がある証拠だとか。「これで大丈夫」と婆さんは太鼓判を押すが、かえって不安は募るばかりである。毒の成分だって科学的に解明されていないものも含めて、いろいろあるというのに、米と茹でる原始的な方法だけですべてのキノコを判定できるとは到底思えない。この手の毒キノコ判別法は迷信を含めて、オールマイティとは言い難い。
 それにしても、いったい誰がこの紛らわしいキノコを置いていったのだろう。婆さんにキノコの種類を尋ねるつもりだったのか、それとも何らかの思惑があってのことか? 不可思議なキノコそのもののように、山村の謎は深まっていく。

(78号)

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美しき黒髪のために

カテゴリー: 気まぐれ一発!コラム | 2007.05.21 Monday

 

気まぐれ77号 美しき黒髪のために 日本では「買ってはいけない」だとか「食べてはいけない」とかいった本がベストセラーになるぐらいだから、普通の人でも食品添加物や化学合成物質については、かなり神経質になっている。それに比べると、ごく一部のインテリ層を除けば、一般的タイ人はその手のことに関して極めて大らかである。とくに北タイの田舎の人を見る限り、フリーパスというかほとんど無防備に近い。
 赤や緑の毒々しい清涼飲料水(というより色水)を平気で飲んでいるし、袋から出してもずっとカビが生えないような合成保存料をたっぷり使用したお菓子もボリボリ食べている。食器を洗っても、すすぎ洗いは溜め置きのたらいの水にさっとくぐらすだけだ。少しぐらい中性洗剤が食器に残っていようとも、お構いなしである。
 先日、幼稚園に通い始めたばかりの息子の額や胸に小さな赤い発疹がたくさんできているのを発見して、タイ人にしては妙に神経質な妻はデング熱か感染症の一種じゃないかと心配そうに訴える。  ちょっと見たところ、あせものようなブツブツなので、日本人なのにかなりアバウトな私は「大したことないよ。もう少し様子をみなさい」と適当にアドバイスしたが、数日経っても一向に症状はよくならない。
 病院で診てもらったところ、シャンプーか洗濯用合成洗剤のアレルギーによる湿疹だという。子供たちが使っているのは体も髪の毛も両方洗うことができる、宣伝上はウルトラ・マイルドなシャンプーだから、シャンプー自体よりも、むしろ使用後の洗い落とし方の問題だろう。水洗いが徹底していないために、皮膚にシャンプー成分が残って炎症を起こしたものと推測される。小さい子供たちは、頭に水をかけられるのを嫌がるから、どうしても髪のすすぎ方が不十分になりがちだ。一度、それを妻に注意したことがあったが、「男のくせに、細かいことつべこべ言うな!」と逆襲されてしまった。「いや、その細かい気配りが健康のためには大切なのだ」といっても、なかなか耳を貸さない。それ見ろ、問題が起きたじゃないか。
 自分の子供時代を振り返ってみれば、小学校低学年まではシャンプーではなく石けんで頭を洗っていた。もちろんリンスなどしない。洗った後は、髪が多少ゴワゴワするが、子供だから気にしない。それで充分だった。そのうちに、いつのまにかシャンプーやリンスを誰もが使う時代になっていた。シャンプーには合成界面活性剤が含まれているので、油汚れ落としには強力な効果がある。汚れだけでなく、本来、髪を保護する成分まで落としてしまうので、リンスで補わなければならない。冷静に考えてみれば、これで二重に得するのは洗剤製造メーカーということになる。ボディシャンプーと保湿クリームとの補完関係もこれと似たようなものだ。
 現在、タイでも日本でもテレビや雑誌にはシャンプー、歯磨き粉、洗濯用洗剤などの広告が溢れている。言わばその刷り込み効果によって、我々は日常生活で当たり前のように合成洗剤を使用しているが、そうした商品が出現したのは石油化学工業発達後のことだから、それほど大昔の話ではない。実は、それら合成洗剤に含まれる成分には健康上、問題視されているものも多い。
 まだ合成洗剤なんかなかった頃、北タイの人はその代わりにどんなものを使っていたのだろう。我が家にしょっちゅう出入りして、息子の面倒を見てくれるキノコ採り名人の婆さん(生まれも育ちもメーテン奥の山村)に40年ほど前の娘時代のことを訊いてみると…。
「灰を溶かした水の上澄みとバイ・パオ(パオの葉)を煮込んだものを容器にとっておき、それをシャンプー代わりに使ったもんだ。髪につけると泡が出て、すべすべになる。フケも出ないし、痒くもならない。それでもフケが気になる人は、焼いたマクルート(コブミカン)を浸した液を髪につけるといい。洗髪した後は、ガティ(ココナッツ・ミルク)をぐつぐつ煮込んで作ったヤシ油を頭につける。貴重品だった石けんの代わりに、ヘチマを使うこともあったよ。使い始めの頃だと、ヘチマは泡が出るからね。森に生えているバーサックの木の小さな実をつぶして泡を作って洗濯洗剤の代わりにもしたさ。皿洗いには、ヤシの実の皮をスポンジ代わりにして、灰の液をつければきれいになったね。歯磨きはまず塩のかたまりを30分ぐらい口に含む。それから炭の小さなかけらで歯を真っ黒にして、それを手でこする。水ですすぐと、歯は真っ白になっているんだよ」
 つまり、出来合いの商品を買うことは滅多になく、身近にある材料で済ませていたというわけだ。昔の人には物もお金もなかったかもしれないが、本当の智慧があった。プラスティックの容器に入った石油化学製品のシャンプーなんかより、バイ・パオの自然シャンプーのほうがずっと髪にはやさしい素材であることは間違いない。
スーパーマーケットの商品棚には、タイのハーブや花など自然の素材をブレンドした「植物性シャンプー」が並んでいるが、ベースになっている原料はあくまで化学製品である。日本でも最近、椿オイル添加のシャンプーが大ヒット中ということで、知り合いの方からお土産にいただいた。美しい容器の裏をよく見れば、やっぱりカタカナで書かれた化学成分のオンパレードである。石けんシャンプーで洗った後で椿油を少量つければいいような気もするが、それでは商売にならないということなのだろう。
 試しにココナッツ・ミルクからヤシ油を作ってみた。鍋にココナッツ・ミルクの大箱を入れて、弱火でかき混ぜないように煮詰めて1時間もすると、透明なヤシ油と残りかす(これも食べられる)に分離する。そのヤシ油を小さなビンに入れ、自家製の整髪料として使うことにした。指先にほんのちょっとだけつけて髪に馴染ませると、お菓子のような匂いがする。なかなか滑らかでいい感じだ。けれども、いかんせん、髪の毛の絶対量が不足している。30代から少しずつ髪が薄くなってしまったのは、合成シャンプーのせいかもしれない。
 庭を散歩していると、寄寓にもパームの根元にパオの幼木を見つけた。もう少し大きくなるのを待って、今度はこれでシャンプーを作ってみようか。昔の北タイの人は、毛生え薬として何を使っていたのだろう。今さら手遅れだとは知りつつも、願わくば美しき黒髪の甦らんことを。

(77号掲載)

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